日本での活動
|日本での活動|現在のさまざまな活動|
メール・マチルド・ラクロ
来日した最初の修道女
日本最初の邦人修道女達
(仁慈堂にて)
1872年(明治5年)、「キリシタン禁制の解かれる希望が見えてきた。今すぐ宣教女に来てほしい」というプチジャン司教からの要請に応えて、メール・マチルドと4名のシスターが、ヨーロッパ人宣教女として初めて日本の土を踏みました。彼らは、多くの苦難を乗り越えながら、横浜山手で、貧しいうち捨てられた子どもたちを世話し(仁慈堂のちの菫学院)、「教え育てる」仕事を始めました。これが日本での宣教の始まりです。
今日では、学校教育(雙葉学園《四谷・田園調布・横浜・静岡・福岡》、サン・モール・インターナショナルスクール《横浜》や小教区教会活動(東京・沖縄他)、また、会員個人の専門職を生かした様々な活動(聖書講座、黙想指導、カウンセリングなど)をとおして、3世紀にわたって受け継がれてきたバレ神父の娘として、「神の愛」を伝え「人間が人間らしく成長」できるように様々な方法で手伝い、共に歩むように努めています。
明治のマザーテレサ シスターマルグリット・山上カク
今から140年ほど前の1872年(明治5年)と言えば、修道女という存在は勿論、キリスト教さえそれほど知られていなかった時代である。因みに、キリシタン禁制の高札が撤去されたのは明治6年である。
山上カク、誓願宣立の日に
その頃、横浜の山手に外国人子女教育、邦人貧困孤児養育事業が幼きイエス会(当時はサンモール修道会と呼ばれていた)によって始められた。日本で最初の孤児院「仁慈堂」である。
ここで、恵まれない子どもたちを親身になって世話をし、地域の貧しい人びとや病気の人びとのためにも力を尽くし、人びとに「山の神様」と呼ばれていた一人の修道女がいた。
既に来日していた(1859年)パリ外国宣教会の宣教師たちが横浜や八王子地区で活躍していた明治11年(1878年)頃、山上カクの家族は揃って洗礼を受けた。兄、山上卓樹は、青年伝道師としてテストビト神父のもとで活動していた。妹、山上カクは18歳の時、同郷の山口とわと共にサンモール修道会に入会した。
山上カクがサンモール会に入って4年後の1885年(明治18年)、22歳の頃から、カクは貧しい人や病人の訪問を始めた。貧しい人が多く住む地域や病院を巡回した。そして、籍のない子ども(捨て子)や、家庭で養育が困難となった子どもたちを養女として自分の戸籍に入れ始めた。孤児たちが成長し、家族・親戚に引き取られても、引き取られた先で酷使されたり、人身売買されるのを防ぐためだった。
明治初期の横浜元町
山上カクは、この左端百段階段を上り下りして人日地を訪問した。階段を下りた麓には、キリシタン禁制の高札が掲げられていた。
「仁慈堂」(孤児院)はやがて内容も次第に充実し、1902年(明治35年)には、「菫女学校」(現在の小学校にあたる各種学校)と呼ばれるようになった。
子どもたちに薬や着物を与え、物質的援助ができたのは、兄、山上卓樹の支えがあったからである。貧しい人びとの家を訪問し、公教要理を教えた。教えに出かける時、修道服で訪問しにくいところには、被り物(ベール)を取って行った。彼女はどんな病気の人にも愛情深く接し、キリストの救いを伝えて、希望をもたらした。ハンセン氏病患者を見つけた時には、修道院の庭の小屋に住まわせ、食事を運んだという。道端に座っている貧者を見かければ、身の上話に耳を傾け、必要なものを与え、困った時にはいつでも修道院に来るようにと言い聞かせた。人びとは彼女から物を受けるだけでなく、人の力を超えたお方を感ぜずにはいられなかった。
1923年(大正12年)の関東大震災で横浜にあったサンモール会経営の三つの学校も倒壊。児童・修道女に犠牲者が出た。カクたち何名かは生き残った孤児20数名を引き連れて東京・荻窪の仮住まいへ移った。その後、1927年(昭和2年)には高円寺へ移動した。ここも、昭和6年には光塩高等女学校へ譲渡され、修道院は高田馬場へ移転。やがて孤児たちのための学校建設の動きが始まり、1933年(昭和8年)、田園調布に菫女学院尋常小学校が開校した。修道院が一切の世話をする無月謝の学校で、生徒数は3,40名だった。
カクはやがて横浜に戻り、晩年、1939年4月25日、横浜市から「子どもたち、病人、貧しい人びとのために献身したことにより」表彰された。既に、病床にあった彼女に代わって、若い修道女が表彰式に出かけた。彼女は表彰状を見ても、「私が働いたのは、ただイエス様のためだけだった。」と言ったと伝えられている。
1939年(昭和14年)5月31日、76歳で安らかに神のみもとに帰った。奇しくもその日は、幼きイエス会の創立者、ニコラ・バレ神父が亡くなった日である。
参考文献:
「山上カクと菫女学校」 関根邦子著
(明星学苑研究紀要 第13号 1993年12月15日発行)