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心の糧
イギリス・アイルランド
一考察 (2011年10月)
"もしあなたが、神の賜を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば…"(ヨハネ 4:10)
福音は、過去に身に着けていたものの何かを脱ぎ捨てるよう(マルコ 10:46)私たちを招きつつ、今日、私たちの間を"通り過ぎよう"とされているイエスに気づくよう私たちに問いかけています。大量消費主義の世界に住む私たちの目は曇らされ、イエスに気づかないのかもしれません。そのためイエスは歩き続けます…。エマウスの箇所(ルカ 24章)でも、弟子たちが一緒に泊るようにと願うまで、イエスはなおも先に進もうとされたとあります。(ルカ 24:28)
福音書の最後の本「黙示録」には、次のように書かれています。「耳あるものは"霊"が告げることを聞くがよい…」同じことが7回繰り返されています。22章にはまた、「乾いている者は来るがよい。命の水が欲しいものは、価なしに飲むがよい。」とあります。
この福音の旅を続けている私たちが創造的、且つ生き生きとした方法で互いに支え合うことが出来ますように。
新しい皮袋を探さずに新しいぶどう酒に注目するのは良い考えではないかもしれません。
現代の根本的な罪の一つは多分、全てが正常に戻るのを期待しつつ塵が元におさまるのを待っていることではないでしょうか、社会の中、そして教会の中でも…。
カール・ラーナーによれば、"将来の霊性は最早、全員一致、明白、且つ一般的な確信を拠りどころとはしない。あるいはまた一般化された宗教的環境を拠りどころとすることもない。むしろ、経験と個人的決断、即ち、各人の信仰を深めること――各人の固有の神秘体験が豊かになること――である。人間の弱さ、痛みの中にご自分を現された神、この目に見える弱さを通して世を贖われた神を認めることである。
ケリーの神秘家、ジョン・モリアーティはそのことを次の様に言っています。"人間として私たちはホッキョクグマのように時々冬眠する必要がある。"
一考察 (2011年11月)
カトリック教会の典礼で11月は死者の月として特に11月の間、私たちは先だって逝った方たちを思い起こしますが、私たち自身の人生がどの方向に向かっているかについて思いめぐらすよう促しを受けているかもしれません。マスコミによる最近の報道はいろいろありますが、魂の糧となるものはどこで見つけられるかと迷っているかもしれません。イエスが私たちに示してくださった生き方は権力、特権、管理システムによって混乱、不明確になっているように思います。"誰かどこかに"責任を負わせることは簡単ですが、私たち-個人、あるいはグループとして-への問いかけは、福音のメッセージに戻ることではないでしょうか。イエスによってもたらされた神のことばは石の板に書かれたものではなく、"生きいて、力を発揮する"(ヘブライへの手紙4:12)ことばなのです。
これに関連して、私たちは次のようなことを考えている自分がいることに気づくかもしれません。
- 人生の旅路はどうなっていくのかと考え、行き詰まりや引っかかりがちな点を越えたいと願う。
- 慣れ親しんでいることを手放すことについていろいろと思いめぐらす。
- 神が私たちに望んでおられる本当のことが明らかになれと願う。
- 自分自身の限界と重荷と感じていることを確認する。
- 生活の忙しさの只中にあっていきいきとさせるものを求める。
- 痛みを感じる-コミュニケーションと関わりが妨げられているところにある内的闘い・苦しみ。
- 混乱の只中に神の静かで平和に満ちた現存を探し求める。
- 神の現存と力の前に自分を開いていたいと望む。
2世紀の聖人、聖イレネウスは "父である神は二つの手、即ち、みことばと聖霊によって救ってくださいます。"と書き、御父を陶工のイメージで現わしています。(エレミヤ 18章)
"心の中に起こる余りにたくさんの思いは、たとえそれが信心業であったとしても、心の深いところに響くデリケートな神の声を妨げることになりえます。"二コラ・バレ(幼きイエス会創立者)
何が起こるかわかりません。世界一高い塔が崩壊する。高い地位にいるものが脅かされる。蔑まれている人たちが大切にされる。シェーマス・ヒーニィ(註1)[ホラティウス(註2)の歌章をもとに]
韓国の禅導師、ソン・サンからも学ぶべきことがあります。彼は"未知"の世界/領域を信ずることを学ばねばならないと説いています。
(註1) アイルランドの詩人(1939年~ )ノーベル文学賞受賞(1995年)
(註2) Quintus Horatius Flaccus (65~8 B.C.) ローマの叙情・風刺詩人 Odes (歌章)、Epistles(書簡詩)等の作品がある。
2011年12月クリスマス
クリスマスおめでとうございます。
クリスマスは、キリストのご降誕祝日です。
み言葉は人となり、私たちのうちに住まわれた。
(聖書 ヨハネ福音 1章14節)
キリストの馬ぶねから遠ざからないように気をつけよ。すべてにおいて、小ささを。
(創立者 ニコラ・バレ師の言葉)
一考察 (2011年12月)
人生は、いつも何かを待ち続けている一つの長い待降節のような感じがします。毎年この季節、私たちは特に"待つこと"に注目します。苦闘、希望、恐れ、信頼、闇、光り……全ては人生の一部なのですが、これらのただ中にあって、もう一度"私たちと共におられる神"の神秘を振りかえるよう呼ばれています。
神の霊が"現代世界の水"の上を動いている、そのような思いがあります。そして、心を開いてその霊に気づく人には皆、新しい命の息を吹き入れてくださいます。私たちは年ごとに新たな招きを受けます。それは、私たちが今、祝おうとしている偉大な神秘を観想し、私たちのいただいている想像する力(イマジネーション)と創造性の扉を開く様々な方法を見つけるようにとの招きです。ある一人の仏僧がつぎのようなことを言っています。"聖書をどのように読めばいいか知っていさえするなら、キリスト教徒は照らしを受けることが出来る"と。天からのメッセージのしるしに気づいたのは羊飼いたちでした。私たちは自らに問いかけます。"野にいる"羊飼いとは誰のことでしょう。私たちは、彼らを通して現代の"天使たち"が伝えるメッセージに気づくかもしれません。
私たちは凡にして解説者、"その道"について話す解説者になる教育をうけているようです。しかし、私たちがしなければならないのは、道になること、道を生きる者となることです。カトリック教会の中で今、私たちは自分たち自身について自分たちに話しかけている時間が余りにも多すぎるのではないでしょうか。その結果、聴く姿勢…神秘、沈黙、起こっている事がらの快い調べに耳を傾けること、人々が真剣に望んでいるのは何なのかに耳を傾ける姿勢を失っているのではないでしょうか。それは、近頃、アイルランドの大統領が言ったことばに表れていると思います。"私たちは眠りから覚めやらず、人としての最も大切な強み・宝に気づいていません…。"
D.J.オリアリーは、創造主が大きな深い愛の心からこの地球を存在に紡ぎ出した最初の"朝"、そして神の私たちに対する驚くほどの望みが、星のようにきらきらと輝く瞳の、私たちキリスト者がイエスと呼んでいる神秘的な幼子の小さな心に現わされた永遠の夜を思い起こすよう私たちを促します。
待降節の間、私たちは現代の砂漠と荒廃した不毛の地に、もう一度"主の道"を備えるように励ましを受けています。イエスは道の模範として来られ、私たちの人生の旅路に欠かせない地図としては、福音書があります。人生の旅とは:-
- 人生の今への旅-私たちの周りで起きるあらゆる事がら
- 人生の馬糟-思いがけないときに私たちの人生に触れる人々、場所、出来事
- "天使たち"に出会う旅-呼びかけに誠実に応えることが出来るよう私たちをそーっと促し、勇気づける様々な霊的促し(インスピレーション)
一考察 (2012年2月)
アイルランドの2月は聖ブリジッドの祝日で始まります。一般的に女性の声が聞いてもらえなかった時代、彼女は自分の信ずる価値観を大切に生きた女性です。1500年前に彼女が、いろいろな意味での資源を公正に分配することが必要であると考え、人を快く迎え入れることを彼女の天賦の才としたのは、注目すべきことです。自分の生き方を探している時、よく、画家や詩人に聞くようにと勧められます。現代詩人の一人、エミリー・ディキンソンは書いています。"あなたは自分で見たいと思っている変化そのものでなければなりません。可能性の中に生きなさい。"福音宣教の模範はイエスです。彼はいろいろな業をなさった後、祈るために人里離れた所に退かれました。そこにいた人々はイエスを探したと言われていますが、イエスは祈りの中で他の町や村へも行かなければならないと悟りました。マルコ 1:35-39
神の霊が働いているところではどこでも、霊の動きを妨害する強い力が働きます。そのように見えない人々を、神が、福音を伝える者としてお使いになることが聖書の随所に書かれています。傾聴する力を養いつつ、様々な意見・考えなどの"雑音"を意識するようにしましょう。それらの雑音は鋭敏な感覚を鈍くし、内的声をかき消してしまいます。信仰はおおかた直観的なもの、脳の正常な働きです。流動的、不可思議で神秘的、非概念的でことばを超えるもの……です。違いに恐れを感じているのは私たちで、神ではありません。神は本当に多くの異なった文化、気質(鋭敏な感受性)、感情、歴史…等々をお与えくださいました。それら全ては、神がどのような方であるかを多少なりと表わし、一人ひとりの辿る固有の旅路をいかに大切にしてくださっているかを示しています。
一考察 (2012年6月)
6月、国際聖体大会がアイルランドで開催されますが、聖体大会のシンボルである鐘は、聖体の神秘について黙想するよう私たちを招いています。イエスを通して、神がお与えくださったもの、私たちのためになさった神秘の中に深く入り、考察するよう私たちは呼ばれています。聖体祭儀はイエスの全生涯と模範を表しています。「わたしの記念として、これを行ないなさい。」ということばの中で言われている"これ"を、私たちはどのように聞いているか。それについて黙想することは助けとなるでしょう。"神のみことば"は生きていて、今も働いておられる。とすれば、私たちがそれをたった一つの意味に限定することは出来ません。イエスにとってどのような意味を持っていたかを黙想することが時々あるかもしれません。何かを決断しなければならない時、私たちはそれを進むべき方向を指し示すものとして聞くかもしれません。あるいはまた別の時には、「わたしが自分のいのちを与えたように、あなたたちも自分のいのちを与えなさい。」というイエスの声として聞くかもしれません。私たちが"これを行なう"時、イエスのメッセージに忠実でありなさいという私たちへの呼びかけを思い出すことでしょう。聖体祭儀を祝うたびごとに、私たちはこの呼びかけの少なくともある一つの面を取り上げるよう招かれているのです。
聖体祭儀は、私たちの日常生活から切り離され、つながりのない、単なる日曜日の儀式ではありません。キリストの御体をいただく時、イエスの教えと生き方を特徴づけるすべてのものと一つになりたいという私たちの願いを表わし、日々の生活の中でイエスを思い起こし続けていきたいと祈るのです。
地上の旅路を辿る私たちは霊的存在です。ですから、キリストの教えをただ守るだけでなく、キリスト者としての生き方が大切になってきます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)この愛は、他者をありのままに受け入れようとする努力に表わされます。
一律であること、それが私たちの生き方の物差しではありません。ヨハネ14:2には次のように書いてあります。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」
6月の第一主日の典礼では、山の上にいるイエスと弟子たちの姿が描かれています。私たちを生活に没頭させるすべてのことから距離をとり、暫し立ち止まってみるというイメージです。イエスのメッセージに耳を傾けるチャンスです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) それ故、創造主であり、あらゆるいのちの源である唯一の神、私たちにとって道、真理、いのちである生けるみことば、生涯を通して私たちを導き、生かしてくださる聖霊に栄光がありますように。
一考察 (2012年10月)
10月は第2バチカン公会議が私たちに遺したものを思い起こす時であり、また「信仰年」が始まる時でもあります。悔恨の思いが種々ある中にも、キリスト教信仰の残り火を探すことも必要です。福音書の中にそのモデルがあります。例えば、a)よきサマリア人の寛大な心 ルカ10:25-37 b)百人隊長の信仰 マタイ8:5-13 c)マグダラのマリアの忠実さ マルコ16:9-14
ルカ10:25にある、「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことが出来るでしょうか」という問いに対し、イエスは神と自分の隣人を愛することに関係しているとお答えになりました。「では、わたしの隣人とは誰ですか」とそのサマリア人は尋ねます。イエスは追いはぎに襲われ、半殺しにされた男の話をします。ある司祭がたまたま通りかかったが、その人を見て、通り過ぎていったと書いてあります。多分に、この司祭は神殿で宗教的儀式をすることになっていたのでしょう。ユダヤの律法では、負傷者に触れると穢れるとされています。その司祭の最たる関心事は律法を守ることにありました。レビ人の役割は神殿で司祭を助けることですから、彼の場合も同じ理由でしたでしょう。そして最後にあるサマリア人が通りかかります。サマリア人はユダヤ人からはよそ者扱いを受けていました。そのサマリア人はその人を見て憐れに思い、傷に包帯をし、宿屋に連れてきました。翌日、宿屋の主人にお金を渡し、追いはぎに襲われた人を介抱するよう頼みました。私たちは自分に問いかけてみたらいいのかもしれません。今日、私たちのキリスト教信仰とキリスト教的価値観にチャレンジする"よそ者"とは誰か、そして私たちはそのチャレンジにどのように応えるのか、と。百人隊長の信仰とマグダラのマリアの忠実さについても同じような考察が出来るでしょう。人生の旅路の途上で、十字架のそばに立たなければならない時があるかもしれません。そしてその一方、いつか、全てよしとなることを信じたいと願うこともあるでしょう。
聖書には次のように書いてあります。神の言葉は生きていて、力を発揮し、精神と霊を切り離し、心の思いや願いを見かけることが出来る。(ヘブライ 4:12)神は自由な応えを待っておられます。私たちは時々、自由とはしたくないことはしなくともよいことだと考えることがありますが、それは一方で、私たちが社会の善に貢献できるのだという感覚を失わせることにつながるものでもあります。様々な自明のしるしに耳を傾け続けるようチャレンジされています。その機会は時にそーっと静かにやって来ます。練り粉を膨らませるのは、ごく僅かなパン種です。過去においてうまくいったことに戻りたいという強い誘惑にかられる事もあり得ます。その誘惑に従うなら、神の霊が私たちを歴史のこの時点で導きたいと願っておられる方向への新たな始まりに気づきそびれることになるかもしれません。
一考察 (2012年11月)
"希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。"(ローマ 15:23)
次にあげるのは、先頃ローマで開かれた世界代表司教会議(シノドス)で、イエズス会の現総長アドルフォ・ニコラス師が話された講話からの抜粋です。歴史の現時点における大切な希望のしるしであると思います。この方針に沿って前進するよう、神の霊がシノドスの参加者を促してくださることを私たちは信じています。
"……私が神学生だった頃、その時の教授であったカール・ラーナーとヨゼフ・ラッツィンガーがトリエント公会議で出された啓示に関して発表された研究論文に非常に感銘を受けたことを憶えています。お二人によれば、トリエント公会議が聖書という時には旧約聖書のことであり、福音に言及する時は、福音は2箇所に存在すると言っています。一つは新約聖書,もう一つ、これが驚きなのですが、信徒の心の中であると言うのです。
神がどのような仕方で存在し、私たちが出会う人々の中で、どのようにお働きになっておられるかに充分注意を払ってこなかったことで、私たちは大切な糸口や悟り、気づきをいただき損ねました。ですから、今こそ、新しいものへと進んでゆく前に、私たちが歴史、最初の福音宣教の中で失われたものから学ぶ時です。よきことが多々ありました。私たちはそれを保持、発展させ、また祝いたいと思います。しかし同時に、数多くの過ちがあったことも覚えておくべきでしょう。特に、人々の声を聞かなかったこと、古い豊かな文化や伝統の持つ価値をごくごく表面的にしか判断しなかったこと、神に向かい、神を賛美する人々の感性や関係を少しも表わしていない礼拝様式を押し付けたこと等の点においてのことです。全ての人々、全ての文化が貢献することにより、キリストが完全に満たされます。過去から学ぶこと、新しい福音宣教に大いに助けとなる教えがたくさんあります。私の話しを終える前に、その幾つかを簡単に述べさせていただきたいと思います。
福音を伝える際には"謙遜の道"が重要であること。
私たちが発言したり、公に宣言する時には、"人間は不完全であり、限界があるという真実"を勝利主義のかけらを一切残さず、言明する必要があること。
伝えようとするメッセージは単純明快であること。複雑であったり、余りに行きすぎた合理的な考え方は、メッセージをぼやけさせ、分かりにくくしてしまう。
人間のいのち、歴史の中に働かれる神の業を認め、感謝する寛い心、そして他の人々の中にある善と献身に気づいた時にいつも感じる賞賛、喜び、希望。
最も信頼できるメッセージは、生涯を全面的にイエス・キリストの福音に賭けて生き、イエス・キリストに導かれる私たちの生き方にあるということ。
福音の核心に至る最も有効な近道は、ゆるしと和解であること。
十字架のメッセージは、それを述べ伝える人の死(自分自身に死ぬこと、ある限られた目的に死ぬこと)によって最もよく伝わるものであること。
2012年12月クリスマス
クリスマスおめでとうございます。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
アレルヤ
(ヨハネ福音書 3:16)
一考察 (2012年12月)
12月は待降節。"待つ"という神秘的な時を過ごします。日頃、私たちは待つことにさほど価値を置いていないのかもしれませんが、聖書では、創造的な時とされています。待つ時、それは、私たちが神の現存に気づく時であり、私たちの"家"の中に神のための"部屋" を設けることです。そして、毎日、時間を決めて、その"部屋"に行きます。しなければならないことは全て脇に置き、静かになる時かもしれません。あるいは、ただ座って、神に場を差し出し、内的な静かさを探す時かもしれません。聖書の個所を選び、読んでみるのもよいでしょう。例えば、待降節第1主日の福音、ルカ21:25-28、34-36。そしてその時は、その個所がどんな意味なのかを考えるのではなく、聖書が私たちに語りかけることに耳を傾けるようにいたしましょう。このような場合、聖書の個所を読むことは、新聞や教科書を読むのとは違います。また、情報を集めることでもありません。聖書は私たちの心に語りかけるように書かれています。心を沈め、聴き、そして待つ。そのままそこに留まっていると、私たちの心に触れるひとつのことば、あるいは一節、またはイメージ等が浮かんでくるかもしれません。この時点で私たちは丁度、鏡を見て、自分と自分の生き方を見るように、聖書が生ける神のみことばであることが見えてきます。
口が利けなくされたザカリア(ルカ1:20)は、天使から伝えられた神秘の深みに入るために必要だった時間というものにより深い意味があったことに思い巡らします。 "一方、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。"(ルカ2:19) 12月8日、私たちはマリアの召命ともいうべき日を祝います。マリアもまた、いただいたメッセージを理解する時間が必要でした。彼女はきっとこのスペースを、山里を行き、彼女に起こったこと―互に助け合う感動的な物語―を、もう一人の女性と分かち合う旅の間に取ったのだと思います。私たち自身、曲がりくねった道やでこぼこの道を旅していますが、次の一節を読み、励まされます。"山と丘はすべて低くされ、曲がりくねった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らにされ、人は皆、神の救いを見る。"(イザヤ40:3-5) 私たちも現代の荒れ野において、私たちの日々の生活の一部となっている深い谷を渡り、山間に道を整える呼びかけを受けているのだと思います。
一考察 (2013年1月)
"始め"というものは、来し方を振りかえり、物事を行なう時の新しいやり方や在り方の可能性を考えるきっかけとなります。ですから、自分の中でどのようなことが起こっているかを聞くために、静かな時を持つことが大切です。体のために食べ物をとることはまあよく出来ているとしても、人生の意味づけとなる、他の根本的な私たちの存在に関わる面の栄養については、余りよく出来ていないかも知れません。私たち一人ひとりは、未来に向かう明日への門の前に立っています。私たちの目前にひろがる道は単なる時間的な旅ではありません。私たちを山里や広漠とした荒れ地に、あるいは喜びに溢れた祝いの場、または私たちを生き生きとさせる瞬間……に連れて行ってくれるかも知れません。
庭園/菜園のような頭脳には、新しいいのちが芽生えるために耕やしが必要であると分かります。人間の場合、決断しなければならない時、隠された動機を秘めていることが往々にしてあります。神の望みに心を開いていることは、いつの時でもチャレンジです。ある賢人が次のように言っています。"開いた心で決断すると、大抵の場合、私の決断は間違っていなかったということが分かります。苦痛を抱えていたとしても、私が他者にとっての苦痛になる必要はないと知るようになりました。人は私が言ったことやしたことは忘れるが、私が彼らにどんなことを感じさせたかは決して忘れないということが分かりました。"
信仰年にあたり、福音のレンズを通していのち/人生を見つめたいという私たちの望みを再び燃えたたせる方法を見つけるかもしれません。私たちが人生の方向を見出すのはこの時です。神のことばは生きていて、力があり(ヘブライ4:12)、私たちの人生の"今"と、神がこの時に私たちを導きたいと望んでおられる道に私たちを案内してくれます。ジョン・オドナヒューは次のように書いています。"日中の興奮が夕暮れの薄明かりの中に鎮まってゆくにつれ、私たちの中にある緊張は和らぐ。"
探求の旅に出て、道中の道案内を受け入れた賢い人は、別の"道"を通って帰ってくる。
一考察 (2013年2月)
四旬節が2月に始まり、典礼に使われる朗読は私たちが更にすぐれた賜、即ち、人生に意味を与えるものに目を向ける助けとなるものが選ばれています。福音書の中でイエスは、預言者は自分の故郷では受け入れられないと言っています。他から承認されない考えを堅持することは簡単ではありません。イエスが言われたことを聞いた群衆は激怒したと書かれています。私たちが度々耳にする決まり文句"静かな生活のためなら何でもいい"は、イエスが示す模範ではありません。四旬節は神のために場を取るようにとの促しを受ける時です。即ち、私たちの生活から神を排除してしまうことは何であれ、全て避けるようにと私たちに呼びかけています。預言者ヨエル2章12節、"今こそ、心からわたしに立ち返れ。"とあるように、"断捨離"と積極的に何かをすることの双方でバランスを取ることが勧められています。この線に沿った具体的な決心があるでしょうか。ホセア10章に書かれているのですが、私の生き方の中で掘り起こす必要のある"使われていないもの"は何でしょうか。出かけて行き、実を結ぶこと、それは別の見方、考え方-他のパラダイム-を喜んで受け入れるために、自分の思考様式から出て、扉を開くことです。
火を燃やし続けるには薪・燃料を足さなければならないように、私たちも歴史のこの時点で神の呼びかけに応えるため、自分たちの望みを常に新たにして行かなければなりません。神は、私たちが未来に向かって新たな方法を具体的に示すのを当てにしていらっしゃるかもしれません。私たちの聞き方は、話す人の意向とは違っていることはめずらしくありません。私たちが聞く耳を持っているなら(=聞くスペースを自分自身に提供するなら)、神は一人ひとりの心に話しかけてくださいます。どのコミュニケーションにも、聞くスペースがなければなりません。そうすれば、単なる独り言、あるいはただ、他の人々が必要としていることに自分なりの理解の仕方で応えて終わりにしてしまうことはないでしょう。
人生の重大な選択をするチャレンジを受けている時、大抵の人が"砂漠"というスペースを経験することがよくありますが、選択する際の判断基準を振り返るよい機会となるかもしれません。教会や生き方が余りに制度化されると、最早、私たちは生活の中に表わされる神の創造的なみ業に自由に応えられなくなってしまうかもしれません。ヨハネ3章16節は、誰をも罪に定めず、全ての人を救いたいという神の望みの計り知れなさに気づかせてくれます。
一考察 (2013年3月)
教皇ベネディクトはご自分が"モーツアルト大好き人間"ですと明言しておられますが、モーツアルトの音楽は人間存在の悲劇全体を表現しています。教皇は今、最後のアリアを非常に彼らしい、感動的な方法で生きておられます。教皇がこの決断をされた時、世界は教皇の人としての品位と勇気、謙遜を讃えました。第2バチカン公会議は、教会が絶えず刷新されていかなければならないと宣言しました。教会はこの方向に門を開きました。ですから今、この方向性をどのようにして見える形にしていくか、それが彼の後継者に託された課題です。集団に働く無意識があると考えるなら、将来への道を具体化していく役割が私たち全てにあると思います。
四旬節の間、私たちは、イエスが私たちに残そうとされたメッセージを考察し、祈るよう呼びかけられています。イエスのメッセージを"間違ってとっていた"時があったと認める積極的な姿勢、私たちがいろいろな点で自分たちと"違っている"と考える人たちを受け入れる広い心、私たちが今まで問題にしてこなかったこと、あるいは聞きたくないことに開いた姿勢で省察するよう招かれています。
3月の第1主日の福音朗読(ルカ13:1-9)から、私たちは次のような点に気づかされます。
1) イエスの宣教使命は、政治論争をすることではありませんでした。イエスの望みは、神の国とそれがいかに大切であるかを人々に伝えることでした。人間は何かされたら仕返しするというのが自然的な傾きだと思います。ところがイエスは、私たち自身に目を向け、悔い改めを呼びかけておられます。
"あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。"(ルカ13:5) いつも間違いをせずに正しいことをしなさいと言っているのではありません。どうして間違うようになったのかを認め、それに対応することについて言っています。
2) 実をつけるたとえ話(たとえ話:大切なメッセージが込められている物語)
(a) 一生涯の間、私たちはどのような実を探しているのでしょうか。
(b) 神はどのような実を探しておられるのでしょうか。
ユダヤ人はローマ人に対していろいろと申し立てをします。多分、それには一理があるのかもしれません。しかし、ここで再びイエスは言います。人を責めず、まず自分自身に目を留めなさい。自分がどのような生き方をしているかを見なさいと。木が剪定されなければならないように、私たちも余分なものを取り除く必要があります。植物に肥料が必要なように、私たちにも成長を助けるものが必要です。切り落とされた枝が実を結ぶことが出来ないように、私たちもつながっていなければ、同じようになります。別の個所でイエスは言っています。"わたしを離れていては、あなたがたは何もできない。"
いろいろな実があります。与えること、ゆるすこと、祈ること、分かち合うこと、支えること、愛、よろこび、平和、忍耐、親切、やさしさ、忠実、温和、自制心……。私たちが皆、同じような実を結ぶのではありませんが、神からいただいた賜をどのように使っているかについて自らにたずねてみる必要があります。
普通、単なる叙述よりもシンボルや物語の方が分かり易いと昔から言われています。花がゆっくりと開いていくように、言わんとしていることが私たちにもかすかに見えてきます。"現代人は教師の言うことよりも、証し人のほうに喜んで耳を傾けます。彼らが教師に耳を傾けることがあるとすれば、それはその教師たちが証し人だからです。" (教皇パウロVI世の信徒評議会メンバーに宛てたメッセージ、1974年)
一考察 (2013年4月)
教皇フランシスコは復活徹夜祭の説教の中で、復活物語の中における女性の役割をはっきりと認められました。婦人たちはイエスに従い、イエスの言葉に耳を傾けました。彼女たちの人間としての尊厳をイエスから認めていただき、理解されたと感じ、最後までイエスと行動を共にしました。カルワリオ、そしてイエスが十字架から下ろされる時まで。どのような気持ちで彼女たちがイエスの墓まで行ったかを想像することが出来ます…全く新しいこと、思いもよらなかったことが起きた時の気持ちを。たとえば、神は今、私に何を求めておられるのかというようなことを含めて、新しさにぶつかった時、私たちは往々にして恐れを感じます。福音書の中の使徒たちがそうだったように、ものの見方・考え方を変えるよりも、多くの場合、自分の安定に留まるほうを選びます。私たちの神は意表をつく神です!私たちの生き方・生活に神が吹き込もうと望んでおられる新しさに対して、心を閉ざさないようにしましょう!落胆したり、悲しんだりしないようにしましょう。神に変えられないことなど決してありません。
婦人たちが復活されたイエスに最初に出会った時、彼女たちは恐れでいっぱいでした。以前、イエスが彼女たちに話されたことを思い出したからです。彼女たちは覚えていたのです。私たちも同じように、イエスのことば、行ない、生き方を思い出すようにと招かれています。婦人たちが恐れを乗り越え、復活のメッセージを使徒や他の人々に告げることが出来たのは、そのことによります。私たちの希望をいきいきと保つために、神が私たち一人ひとりにしてくださったこと、そしてこれからもそうしてくださることを想起する時と場(スペース)を取るようにしましょう。たとえ、私たちがどのような歩みをするとしても…!
キリストを信じる信仰を生きるとは、いろいろなことをすることではなく、むしろ、いろいろなことを違ったやり方でするということです。いろいろな人がいることに気づきます。たとえば、(I)盲目の人。即ち、探してはいるけれども、解決の手段が見つけられない人 (II)皮膚病を病む人。即ち、自信がなく、自分は提供できるものが何もないと感じている人 (III)聾唖者。即ち、違いに耳を傾けることが出来ない人 (IV)手足の不自由な人。即ち、難局、難問を転換する役割を果たすよりも、むしろ、それに対処することから引き下がりたいと望む人 (V)人々が何を考え、何と言うかを恐れ、"家の戸にかぎをかけて"いる人。と同時に、一言のことばを発せずとも、私たちの生き方そのものが多くのことを物語ます。
変化なくして成長なしとは自然が私たちに教えるところです。しかし私たちは変化を非常に恐れることもあります。不足の状況に備えていることは、識別する姿勢をもって柔軟であることが絶えず要求されますが、他方、創造性、勇気、大胆さの"ドアを叩く"ことも必要です。教皇フランシスコは常に司祭たちに言っていました。「自分の責任を取りなさい。そしてドアは開けておくのです。」別の言い方をするなら、続けて識別出来るスペースを残しておきなさいということです。
一考察 (2013年5月)
5月は伝統的に聖母マリアに捧げられた月ですが、この月に私たちはイエスの生涯に果たしたマリアの役割と、マリアが私たちの生き方の模範であることについて祈るよう呼びかけられています。お告げの時、マリアは恐れ、当惑し、不安な思いに駆られました。しかし同時に、彼女には聴く姿勢がありました。
この受容力のゆえに、マリアは天使のメッセージに耳を傾けることが出来たのでした。サムエル記上2:1-10に書かれているハンナの祈りをもとに、マリアは神に仕えたいというご自分の望みを表わされました。マリアは困っている人に手を差しのべ、励ますために大変な道のりを歩き、"急いで山里に向かいました。"自分に何が求められているのか、あるいはイエスのなさることが理解できない時もありました。"…なぜこんなことをしてくれたのです…(ルカ2:48)このようなことがあった時にも、マリアは諦めず、思い巡らせていました…(ルカ2:51)ですから、マリアは神のことばを思い巡らし、神のことばがその人の深いところに根づく場を提供する人みなのモデルです。イエスといっしょに暮らし、イエスの生き方を近くに見ていたマリアは聞くことと思い巡らすことの大切さ、価値に気づいていったのだと思います。
ある村での結婚式のこと。宴の最中でぶどう酒がなくなり、花婿と花嫁が困惑した時、マリアは彼らの気持ちを察したのでした。その時マリアが話したことば「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」は、今も私たちに告げられていることばです。ですから、私たちがイエスに聞き、イエスに従って歩むよう、マリアの生涯はイエスを指し示すことに向けられていると言えます。このような受容の姿勢、聞くために耳を開いているためには、静かになる時間を取り、神のことばが私たちに届くのを待つことが求められます。"マリアの賛歌"の中で、マリアは貧しい人、いろいろな形で抑圧されている人を代弁し、力強く宣言しています。"身分の低い者を高く上げられます。"(ルカ1:52) 今月の主日の福音の中で、只一つのことば、あるいは一つの文章だけを耳にし、その一語、あるいは一文がその週全体を導いてくれることになるでしょう。
即ち、(I)「私を愛する人は、わたしの言葉を守る…」(ヨハネ14:23)(II)「罪の赦しを得させる悔い改め」(ルカ24:47)は誰にでも与えられる。(III)「聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる…」(ヨハネ14:26)
機知に富む一つのことばがあります。日曜日に教会に行って祈り、週の残りの日は人を苦しめるというのでは如何なものかと…?
一考察 (2013年6月)
ルカ9:10-16では、自分たちに与えられた宣教使命について理解に苦しむ使徒たちの姿が見られます。それは私たちも同様で、聖書の中で与えられているメッセージを黙想するために立ち止まる時にいつも考えさせられることです。ルカ福音書のこの個所には、使徒たちが帰って来て、自分たちの行なったことをイエスに告げたと書かれています。イエスは彼らを連れ、しばらく自分たちだけでいたいとお望みになりました。しかし、群衆が集まって来て、イエスを探したので、イエスは彼らの願いを聞き入れられました。理解と共感の"パン"を求め、"あらぬ時"にやって来る人々に私たちはどのように応えているでしょうか。ただ単にアドバイスを与えた後、 "周りの村に行って自分たちで探しなさい"と言ってその人たちを送り出すだけでしょうか。あるいは、聖霊の働きに信頼し、自分が持っている僅かなものの中から少しでも分かち合おうとするのでしょうか。
私たち自身もどこかに退いて、考えたり、祈りたいと思っても、何やかにやと邪魔が入る時があります。イエスは"邪魔する人たち"を追い返したりはなさいませんでした。その人たちを迎え入れ、癒しが必要な人には、癒しをお与えになりました。この事は多分、私たちの生活の中で起きる予期しない事柄、あるいはまた、祈りの最中、思いの中に湧き上がってくることに対応するヒントになるかもしれません。イエスは、私たちが神にスペースを与え、生活の中で私たちが必要とする分野に触れていただくことの重要さを私たちに示しておられるのです。私たちが小さなグループであるとします。その時、自分の持っているわずかなものを皆のために分かち合うことが出来るチャンスが、一人ひとりにはあるのです。私たちに困難が降りかかる時には、このようにして互に支え合うことが出来ます。人生はその本性上、静的なものでないことを知りつつも、私たちの信仰生活を含め、今も尚、私たちはいろいろな面での"変化"と格闘しています。なるほど、私たちの多くは自分の慣れ親しんだことに、より安定を感じていますが、人生はその本性上、常に変化しているというのが現実です。人間は創造力を技術や科学の方面に難なく適応してきましたが、信仰生活面にその力を発揮することはずっと難しいように思われます。私たちが互に助け合い、聖書に精通し、聖体の秘儀が私たちの生活を構成する大切な骨組みとなるような方法があるかもしれません。
私たち一人ひとりはありのままの自分であることで、神に応えるよう招かれています。そして、その一人ひとりは皆、違っています。物事はかくあるべきという自分の見方に合わせて人を見る私たちの傾向は、創造性や成長の妨げとなる危険があります。ビジョンが無ければ、人は絶えると言われています。主がかつてエレミヤに言われたように、今も私たちに言っておられます。"わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける"と。(参照:イザヤ55章) 弟子たちがイエスに"来るべき方は、あなたでしょうか"(マタイ11:4)と尋ねた時、イエスの答えは、「しるしをみなさい」というものでした。人生というものを福音のレンズを通して見ることは、私たちが、今日におけるイエスのメッセージを反映する生き方に焦点を当てる助けとなるでしょう。"そしてイエスは聖書を悟らせるために彼等の心の目を開いた。"(ルカ24:45)
一考察 (2013年9月)
今世紀に入って、人類は少なからぬ意識の変化を経験しているという認識があります。私たちは喜びや苦しみをますます認識するようになっていますが、それはある意味、前世紀の人々にはなかったことです。バチカン公会議は「現代世界憲章」の中で、キリスト者は自分自身のうちにこのような世界観と人類家族に対する関心を深めるように奨めています。「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、とりわけ、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。」(現代世界憲章 序文) 私たちは追いはぎに襲われた人を助けに来た"善いサマリア人"(ルカ10章)は自分だと思える時がある一方、自分は、いわゆる '神のこと' で心がいっぱいに塞がれ、襲われた人の叫びに気づかない祭司やレビ人だと思う時もあることでしょう。このたとえ話は、善を行なう話というよりは、むしろ境界を超える・枠はずしに関する話であると思います。大切なことに関して沈黙するなら、私たちの生きる意味は終わりを迎えることになるでしょう。マタイ11:4で、ヨハネの弟子たちがイエスに、「来るべき方は、あなたでしょうか。」と尋ねた時のイエスの答えは、しるしを見なさいというものでした。イエスの望みは、人々が自から気づき、答えを探し出すことでした。それは丁度、植えられた土地で生きなさい、即ち、自分自身と自分が今、経験していることを知りなさいという、神が私たちに望んでおられることだと思います。
現代に生きる多くの人々がいろいろな形の聖なるスペース(場)に対する渇きを持っていることがはっきりしています。霊性を全体的にまとめることを重点的にしている霊性センターが増えています。そこでは、答えを出すことよりも、深い洞察とか気づきが大切になっています。「恐れるな・・・耳を傾けよ・・・私に従いなさい」というイエスのことばは、現代社会の中で神の呼びかけにいつも中心を置き、福音の精神に忠実に生きるようにという私たちへの招きのことばです。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか」(ルカ6:46) とのイエスのことばは、私たちへのチャレンジとして今も尚、ほとんど皆の心の中に響き続けています。このようにして私たちは、神のなさり方に気づいていくのです。神は私たちの生活の中で働き、これから先も私たちをやさしく導こうとしておられます。その過程で、間違いをしてしまうのはよくあることでしょう。鉛筆に消しゴムがついているのも、パソコンにオプション削除があるのもそのためです! 現代のチャレンジに対する新しい答え探しをしている今、社会のどの場にあっても、相手を非難するのではなく、互に励まし合い、支えあって行くことが出来ますように。
一考察 (2013年10月)
福音書の中にはたびたび、イエスが"道を歩まれる"話しが出てきます。途上で、イエスは人々に出会い、彼らと関わり、"よい知らせ"を彼らに告げ、そして現代に生きる私たちにも開示してくださいました。私たちは折にふれ自分に問いかけます。人生の旅路を辿るなかで、どうしたら私たち自身、"福音"となることが出来るのか。どのようにすれば私たちは福音が生きられている場、私たちの関わり方、手の差しのべ方が、神の心と思いを反映する内省的・観想的な姿勢から生ずる場の核となることが出来るのか。
ルカ福音書の中に、イエスがライ者(重い皮膚病を患っている人たち)に出会う話があります。現在、"ライ者"という語は、私たちが排除したい人、私たちとは合わない人、つまり、歩みを共にしたいとは思わない人、関わりたいとは思わない人のことです。イエスは"国境(くにざかい)"即ち、週辺地域を通っている時、このような人々と出会いました(ルカ17:11-19)。遠くに立ち止まったまま、声を張り上げ、イエスに呼びかけている"ライ病を患っている人たちを見たのです。"イエスは直ぐその人たちに気づき、彼らの願いにお応えになりました。感謝するために戻ってきた人に、イエスは言われました。「立ち上がって、行きなさい」と。それは、人生の途上で出会うかもしれないいろいろなチャレンジに自信をもって立ち向かいなさいということでしょう。イエスは、感謝するために戻ってこなかった人たちがいたことも分かっていました。
10月20日は「世界宣教の日」です。福音のメッセージが定着し、私たちの在り方、行いと切っても切り離せないものになるよう、信仰の扉を更に広く開く道を探すようにと、私たち全てに呼びかけています。教会に行かない人たちも、彼らの心に語りかけるメッセージを聞きたいと待っているかもしれません。最近、開かれた"世界青年の日"、教皇フランシスコは司教たちに次のように語りかけておられます。「大勢の人たちが福音のメッセージを待っている時、私たちは自分たちの小教区や共同体、教区の組織に閉じこもってはいられません!派遣された者として、外に向かって出て行かなければなりません。私たちのところにやってくる人がいる。だから扉を開いてその人たちを歓迎する。それだけでは充分ではありません。その扉から外に出て、人々を探し、出会わなければならないのです!人々の司牧的な必要は何かをしっかりと考えていきましょう。私たちの周りにいる人から始め、最も遠くにいる人々、そして普段、教会に行かない人たちの必要を。」
一考察 (2013年11月)
今月は、チェコの一人の姉妹が宣立した誓願について考察してみたいと思います。誓願を立てる前に、クララは自分の望みを次のように表明しています。私に対する神の限りない愛と招きに生涯、応えていく恵みがいただけますように。幼きイエス会の姉妹として、私のすべてを捧げます。神の手の中にある粘土にように、神がお使いくださる道具でありたいと望みます。全ては、私が辿る神への歩みの助けであると確信し、私の生涯に起こる全てを受け入れたいと願っています。私が出会うすべての人々、様々な状況の中に神を見出したいと望んでいます。私の望みは、神からいただいた全てを分かち合い、私の歩みの途上で出会うすべての人々のため、神の愛の道具となることです。神が一人ひとりに対して抱いている固有の望みに、人々が気づくチャンスに出会うためです。このように表明した後、クララは次のように、誓いのことばを述べました。
清貧の誓願を通して、真の内的自由を得たいと願う私の心からの望みを表明します。所有しているものに所有されること、囚われることを望みません。神以外のどのようなもの、どのような人にも安定を置くことを望みません。両手を空にして、神がそこに置きたいと望まれるものを受ける心で、簡素に生きることを望みます。神からいただいてすべての恵みに感謝して生きる生涯にしたいと望んでいます。なぜなら、それらすべては他の人々と分かち合うためにいただいたものなのですから。現代社会の中で生きる貧困に苦しむすべての人々を通して、キリストをもっとよく知り、奉仕したいと願っています。
従順の誓願を通して、生涯を十全に生きたいという私の心からの望みを表明します。神のみ旨は、私がこのいのちを豊かに生きること、そしてみ旨が私の魂の深みに響いていることであると信じます。幼きイエス会の姉妹と、私が歩みを共にする人々の助け、神のみことばと時のしるし等、様々な方法で神を探し求め、神の望みを識別したいと望んでいます。こころを尽くして神のみ旨を愛し、たとえどのような犠牲を払ってでも実現していくことを望みます。
貞潔の誓願を通して、私をこよなく愛してくださる方を愛し、その方と一つになりたいという私の心からの望みをここに表明いたします。神の愛に応え、ご自分を全く与え尽くしてくださる神に私自身を全面的に捧げることを心から望みます。私が女性であることの賜は、私が神と関わる時の力の源であり、同時に、健全で生き生きとした他者との関わりを持つ時の力の源でもあります。生涯、その恵みに感謝して生きることを望みます。
三誓願を通して、私は全生涯を神に捧げることを望みます。私は自分の限界を越える歩みを始めたことを知っています。自分の弱さ、罪深さ、そして一人ではこの生き方を忠実に生きることは出来ないことも知っています。しかし、私は確信をもって、勇気を出し、自分の旅を始めようとしています。神が私を呼ばれる時、神ご自身が私の力となり、神の招きに従って生きるために必要なものをお与えくださると信じています。
一考察 (2013年12月)
待降節が始まりました。待つことに対する呼びかけだと思います。待つことは一つの在り方ですが、現代において、待つことはますます難しくなっています。私たちは過去の出来事を祝う準備をしているだけでなく、神が今日、私たちの間におられる在り方に焦点を合わせるということでもあります。自分自身に問いかけてみるのもいいのではないでしょうか。私は今、自分の中に新たに生まれてくるものの何を見たいのか。福音宣教に関する使徒的勧告の中で、教皇フランシスコのことばは干上がった土地に落ちる"雨"に例えられていますが、私たちは神との新たな個人的出会いに招かれていると同時に、福音を生きる私たちの生き方にも改めて焦点を当ててみるように招かれていると言っています。私たちの生き方は往々にしてことばよりも雄弁です。教皇は更に言っておられます。ある人たちは表向きに典礼とか、教義、教会の威信に関することで頭がいっぱいで、福音は現代社会の具体的な必要であると同時に、神の民にとって大きな影響を及ぼすものであることには何ら関心を示さないと。教皇は、聖体祭儀は完全無欠な人々へのご褒美ではありません。弱い人々にとってよく効く薬であり、栄養剤ですと言い、秘跡への扉はいかなる理由であろうと閉ざされてはならないと強調なさっておられます。キリスト者は誰をも除外せずによろこびの便りを述べ伝える義務があると、教皇は仰っています。福音書の中に洗礼者ヨハネがそのことばと行いによってイエスを指し示している個所がありますが、キリスト者である私たちも同じようにするように呼びかけられています。私たちが福音のメッセージにもっと親しむようになるため、時間と場(スペース)を取るようにと言うことだと思います。そうすれば、福音のメッセージが生きていく上で私たちが基を置く思考・行動様式となるでしょう。待降節は実に私たちの人生の旅が、来るべき世に入る準備の時であることを思い起こす時であると思います。ですから、イエスが示してくださる道、即ち、今、私たちの前に明らかになっているメッセージの真の意味と私たちを生かしているエネルギーに私たち自身を開きましょう。静かな沈黙の時を持つようにしましょう。そうすれば、みことばが私たちの心と状況の中にご自分の場を見出してくださるでしょう。私たちの生き方によって、私たちが平和を運ぶ者となり、闇のあるところに光を、絶望のあるところに希望を、不安定のあるところに信頼を、分裂のあるところに一致をもたらすことが出来るかもしれません。私たち全てに絶えず問われていることは、ちょっとした親切な行為や理解を示すごく普通の行為が平和と一致をもたらし、私たちの周りにある暴力の連鎖を断ち切ることに役立つということを心に留めておくことです。キリスト者は誰をも除外せずに、福音を述べ伝える義務があると教皇は言っておられます。最近出された福音宣教に関する教皇フランシスコの使徒的勧告の全文は以下のホームページで見ることが出来ます。
http://www.vatican.va
一考察 (2014年1月)
待降節は、神が私たちの中においでくださることを思い起こし、穏やかさの中に黙する時です。新しい年を始めるにあたり、ある一定の時間、あるいはほんの数分でもいいのですが、平和で静かな時間を自分のために取ることを続けてみてはいかがでしょうか。神が私たちの日常の中に現存しておられることに気づく時になるかもしれません。私たちはありとあらゆる種類の便利な器具に囲まれて生活していますが、こういう時代であるからこそ、沈黙する時を持つことは、本当の意味でチャレンジになると思います。ジョウン・チェティスターが言っているように、沈黙に関して寡黙であることは、まことに少ないとは皮肉であると直ぐに分かることになるでしょう。彼女は言っています。心の深奥は休息の場です。プラス面に限らず、人生の苦悩や心配を抱えている時でさえも。続けて、「よく生きるためのキーポイントは往々にして、私たちの外にあるのではなく、むしろ私たちが内に持っていることにある」と言っています。「生き方、生活の質を決定するのは、私たちの内面の最も深いところにあるもので、廻りで私たちを悩ませているものではありません。心の内にあるものを只、そこに置くか、あるいは大切なものとしておさめておきます。」
今月はイエスの洗礼を祝いますが、私たちも自分自身の洗礼を改めて思い起こすことでしょう。洗礼は今の私たちにとってどのような意味なのかについて深く考えるチャンスです。洗礼は、私たちがイエスに属するものとなったしるしです。この信仰をどのように育んでいるか、自分に問うてみたいと思うかもしれません。種を蒔き、その種が育つためには栄養となるものがなくてはなりません。必要なものが全てパックされ、封を切って、それをやるだけでよいというものがあるわけではありません。私たちが生きていくためにしなければならない様々な選択を見直し、栄養を与え、育てる方法を見直すことに関係しています。その方法の一つに、聖書のみことばに親しむ機会をふやすことがあるかもしれません。“生きていて、力がある”(ヘブライ4:12) 神のことばは、人生の旅の途上にある私たちを導くために与えられています。三人の賢者は星の導きに従い、自分たちの夢を追求しました。三人の賢者から学ぶことが出来るでしょう。
ヨゼフはどうにか恐れと混乱を乗り越え、ある一つの決断をしました。その決断は彼を未知なるものへ飛躍させました。このようにして、彼は想像もしなかったことへと導かれたのでした。三人の賢者の導きに従い、私たちも発見の旅に出かける招きを受けています。方法はいろいろあるでしょう。神ご自身も現代世界に生きる私たちの間にどのように現存できるか、その方法を探していらっしゃいます。私たちとしては、予期せぬことに自分自身を開き、いただいたいのちの賜(私たちの存在そのもの)を捧げて、目指すべき方向づけを受け入れていきましょう。
一考察 (2014年2月)
新しいいのちが芽生える兆しが今、あちこちで見られます。私たちの生活の中にある“スペース”に目を留める時ではないでしょうか。そのスペースにも、新しいいのちが必要かもしれません。“春の大掃除”です。それを分かりやすく説明するために、イエスは塩と光のたとえをお使いになりました。“地の塩”と言われる人々と出会ったことがあるという方たちが大勢いると思います。その人たちは自分の生き方を通して社会を向上させます。彼らの活動は人々を神へと導く一条の光のようです。福音を生きる者として、私たちは皆、このような方法で神が私たちの中でお働きくださるスペースを神に差し出すようにと招かれています。庭の土を耕すように、私たちの頭も時々、掘り起こす必要があると思います。想像と創造の種が芽を出し、いのちに対する新しい見方が芽ばえるためです。それは、静けさと聴くためのスペースと時を創り出すようにとの招きです。イエスは「わたしについて来なさい。」と仰せになりましたが、イエスの旅は快適な旅のモデルではありません。イエスの旅に従った多くの人々がいますが、その中の一人、オスカー・ロメロは次のように言っています。「これが今、私たちのしようとしていることです。種を蒔くと、ある日、芽を出します。将来、実りがあると分かっていますから、蒔かれた種に水をやります。私たちは土台を築きますが、それを更に堅固にしていく必要があります。私たちに全てのことが出来るわけではありません。そのことに気づけば、解放感を味わうことが出来でしょう。そうすれば、何かが出来るようになります、しかも非常によく出来るのです。完全ではないかもしれませんが、旅の途上の一歩であり、主の恵みが働くチャンスです。残りの全ては主がしてくださいます。結果を見ることはないかも知れません…。私たちは今ではなく、未来の預言者です。」
マイケル・ミーガンは「すべてよし」という著書の中で、物を買う、所持する、獲得する、行動することに支配されている世界に住むことは、人間の自尊心と、‘人間に成っていく’、しかも完全なものになっていく力が徐々に蝕まれていく危険があると言っています。それを買えば幸せになれると言われ、売られているものは往々にして、私たちを商業主義に引き込むサイクルの一部であり、もっと欲しくなる気持ちを起こさせる仕組みになっています。これらのことは根の深い不安とストレスにつながる道になる危険があります。真のしあわせのもとはどこか別なところにあるのです。私たちは皆、私たちのために用意されているこの“どこか別のところ”を探し出すよう問われています。YouTubeに“信仰のウィンドウ・ショッピング”という歌がのっていますが、現在、進行中の“捜索の旅”の一端を反映しているように思います。私たちもこの"捜索の旅"に参加しましょう。そして、“窓(ウィンドウ)”を開き、神の霊が今日、私たちをどこに導いてくださるのかに意識していきましょう。
一考察 (2014年3月)
四旬節は、「悔い改めて、福音を信じなさい。」という招きのことばで始まります。皆さんの中には、神のみことばを限定的に使ったことを悔いる必要があると思っていらっしゃる方がおられるかもしれません。神のみことばは私たちの生きる道を導くために与えられたものですから…。主日の聖書の朗読を聞き、読む時、私たちの琴線に触れる何かに出会うことがあります。一つのことばであるとか、成句、あるいはイメージであるかもしれません。一週間、それをマントラのように唱え続けてみましょう。これまで経験したことのないような、ある一つの祈り方になるかもしれません。聖書にも、祈りはことば数が多ければよいというのではないとあります。「あなたがたが祈るときは、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる人のようにくどくどと述べてはならない。」(マタイ6:7) 四旬節は、福音を生きる私たちの生き方を問い直すよう招いています。それは、福音の個所がどのような意味なのかを理解するためというよりもむしろ、私たちのうちに動いているものに開いているということです。発見の旅を続け、自分の生活を神のみことばというレンズを通して見るように呼びかけられています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。」(ヨハネ8:31) また皆さんは、「神の言葉は生きており、力を発揮する」(ヘブライ4:12) ということばの真実を再発見なさるかもしれません。聖書の読み方にはいろいろな方法があります。例えば、(a)歴史、(b)リサーチ、(c)学問、(d)祈りの観点から読む方法です。一つの方法を取ることが、他の方法を排除するということではありません。聖書で祈る時にはいつでも、みことばが“語りかける”ままに、私たちのうちに起こっていることに光をあてればよいのです。聖書は私たちの心に語りかけるように書かれています。神のことばを静かに聴き、待つよう招かれています。ある一つのことばが心に触れていると感じた時、私たちは現代世界の荒れ野におられる“みことば”に出会っているのです。断食への呼びかけは、単に口に入るものに限定されているのではありません。口から出るものについても言えることです。たとえば、他者を裁くことを控えるのは、私たちに取ってより一層むずかしいことかもしれません。悔い改めへの呼びかけは明白、且つ単刀直入です。自分の価値観、望みを確認するため、自身の中で変化を促しているものに目を留めてみましょう。四旬節は自然界のいのちが新しくなる時に巡ってきます。私たちが新たに成長するために何が助けとなるかを確かめるようにと私たちを促してくれます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
(ヨハネ8:31-32) ジョン・オドナヒューのことばで言えば、「どうぞ、一日一日を、ワンダーの中核で織りなされる聖なる賜として体験して行けますように。」
一考察 (2014年4月)
四旬節も終わりに近づいた今、それが自分にとってどのようなものであったかを振りかえる時を持つことは助けになるかもしれません。どのような霊的たべものを自分に与えたでしょうか。生活の中で神にどのくらい場を差し出したでしょうか。聖書のみことばに耳を傾ける時、あるいは聖書を読む時、聖書の個所がどのような意味なのかを理解するよりも、むしろ私たちに向けられているメッセージに心を開くよう呼びかけられているのだと思います。ラザロを生き返らせた個所の中で、イエスは「ほどいてやって、行かせなさい」と言われました。(ヨハネ11:44) 自分も何らかの方法で解放されなければならないと考え、どのような方法があるだろうかと問うてみるのもよいかもしれません。ラザロの場合、イエスはその時が来るのを待ちました。直ぐに行動しませんでした。問題に取り組む前に距離を取ることが大切であると、私たちも知っています。「これをわたしの記念として行ないなさい」という聖体祭儀の中のことばは、イエスがご自分をお与えになったように、私たちも自分自身を与えなさいとの招きです。ですから、私たちの生き方の中で、“チボリウム”(訳者註:聖体を保存するために用いられる蓋のついたゴブレット型の容器)に覆いをかけないようにしましょう。
福音書の中に出てくるイエスの最初のメッセージはギリシア語の‘メタノイア’でした。文字通りに訳せば、‘心を変える’、即ち、‘回心’という意味です。‘悔い改め’という訳語には、道徳的な響きがあります。このことばの本来の意味は、生き方の大切な要素として変化を受け入れるということです。それはまた‘足を洗うこと’の中にある大切なメッセージでもあります。赦しに例を取った場合、自分の赦しの本質を確認し、目前のバリア・壁を壊そうとしている時、私の足を洗う行為はどの程度イエスの記念となっているでしょうか。
霊的衣が否定と無私という泥で汚れた時、それを洗い落としたいという願いと力があるだろうか。
霊的衣が垂れ下がり、自分に合わない時、自分のことばと行動を自分が大切にしていること、信じていることに合致させようとする決意と知恵があるだろうか。
霊的衣替えが必要になった時、適切な決断と必要とされている変化を断行する勇気があるだろうか。
霊的衣が破れ、繕わなければならない時、直すことが出来るだろうか。私は赦しと和解に開いているだろうか。
霊的衣が愛と慈しみ、内的平和、共感する心、忍耐、神への感謝という糸で織られているように祈ります。神はご自分がどういう方であるかを私という人間を通して多少なりとも反映させることをお選びになりました。
“憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい…これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。”(コロサイ3:12-14)
一考察 (2014年5月)
復活祭後のこの時期、私たちは主の復活から昇天までの40日という聖書的時間のサイクルを辿っている最中です。その時、私たちには終わりと思われたことが実は新しい始まりであったことに気づきます。恐れは勇気と換えられ、失望は希望に換えられます。前進の新たな一歩が提示されています。たとえどのような場にあっても、私たちは福音のメッセージを生きるようにと招かれています。福音のメッセージを生きようとする時、多くの課題・チャレンジに出会うかもしれません。使徒たちは恐怖にとらわれ、戸に鍵をかけ、家の中でじっとしていました。人生の歩みの中で、私たちも“戸に鍵をかけ”聖霊の働きを阻んでいるということはいないでしょうか。真の信仰は往々にして疑い・不信という厳しい試練を通してもたらされるものです。トマのように、私たち自身も聞きたくないと抵抗していることもあるでしょう。自分は正しいと確信しているため、あるいは道に迷ってしまうかもしれないという恐れからかもしれません…。
イエスはマグダラのマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。過去に執着することに注意を促しているのだと思います。さもなければ、旅には過ぎ越しの一面があるということも含め、神が現代世界の現実の中に現存しておられることに気づかないままにいるからかもしれません。弟子たちのように、私たちも現代に対する私たちの信仰の応えを再創造するよう招かれています。復活されたイエスは‘今’を生きるようにと私たちを招いておられるのです。驚嘆の念を持ちつつ、想像してみましょう。ありのままに…。その過程で私たちは気づくかもしれません。私たちを促し、前進させる聖霊の優しいなさり方に。
二人の弟子はイエスに失望し、エルサレムを離れようとしていました。私たちも、「あぁ、私たちの望みは…」と言いながら、自分たちの‘道’を歩こうとしているのかもしれません。イエスは、弟子たちが「一緒にお泊りください」というまで、なおも先に行こうとされました。神の霊は今の時の必要に応え、福音的な生き方をするようにと人々を促し、呼びかけ続けておられます。一人、あるいは二人の人と連帯し、互に支え合いながら、この旅を続けることは助けになるでしょう。‘答え’を見つける助けとなるのは往々にして、とても簡単なことです。聞く耳を持つこと、すなわち、信頼する他者と分かち合うことです。ルカ24:13-35にあるエマウスへの道でのこと:答えを与えるのではなく、聴く、分かち合う、力づける、招くという以外によい方法があるでしょうか。人生の道しるべは福音書の中にこそあるのです。「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれた。」(ルカ24:45)
一考察 (2014年6月)
聖霊降臨の祝日を迎える準備をしていますが、聖霊降臨の出来事が私たちの日々の生活の中で、どのような意味を持っているかについてもう一度振り返ってみることは助けになるかもしれません。今、神が私たちを導いてくださっていること、私たちは、生活の中に現存しておられるその神を必要としているのだということを思い返す時だと思います。“弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。”(ヨハネ14:26) 霊の七つの賜について学んだことを思い出してみましょう。いろいろなやり方、いろいろな観点からもたらされたこの特別な賜の重大さとその賜の持つ今日性を悟る助けとなるかもしれません。
知恵:更に深い意味を把握するため
理解:神の呼びかけを日々、更にはっきり識別するため
判断:神の呼びかけに応えることに関して
勇気:呼びかけに寛大に「はい」と応えるため
知識:日常の現実世界を越えた先を見ることが出来るため
畏敬:神の現存に対する私たちの気づきを深める助け
神秘に対する直感的な理解(センス):私たちのあり方、行ないに意味を与える
聖霊の賜を数字に限定したくないと思う一方、‘7’という聖書的な数字には大切な意味があることも知っています。‘7’には、完全とか、豊かさ、約束/契約等の意味があります。即ち、神の力が働いているということです。
7つの賜に促され、私たちが何を大切にしているのかを更によく理解するために、他者の見方が助けになるかもしれないと気づくことでしょう。聖書には霊に満たされて発せられた問いがたくさんあります。「あなたはどこにいるのか?」「あなたの兄弟はどこにいるのか?」「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか?」「アンドレ、あなたは何を探しているのか?」「あなたは自分からこのことを言っているのか、あるいは、誰かがそれを言えとあなたに命じたのか?」 気になる疑問が出てきたときには、その気になる疑問に耳を傾けてみましょう。助けになると思います。霊が私たちの中に疑問を起こさせ、私たちが当たり前のことと思っていることをもう一度よく見るようにと呼びかけているのかもしれません。何歳になっていようが、人生のどのような段階にあるか(生活が確立され、安定しているか)にかかわらず、‘頭脳の春、’頭脳が活発になる時があるものです。真理の霊が私たちに問いかけ、自分の古い葉を落とし、春がもう一度私たちのもとに廻って来ますように。聖霊、来てください。私たちが行きたくないと思うところに私たちを導いてください。私たちの想像には限界があります。私たちの想像の地平を開いてください。私たちの魂に新しい明日のための夢、それがたとえ危険が伴うものであったとしても、その夢を持たせてください。預言的な熱意を私たちの心の中に再び燃え立たせてくださいますように。
一考察 (2014年9月)
人類の歴史の中で今、暴力が世界のあちこちで激増しています。このような時、どうしたら平和と善意がもっと私たちの日常生活になくてはならない大切なものになるか考えてみることは助けになるかも知れません。私たちには決して考えの及ばないことかも知れませんが、集団無意識の中で、このことはたとえ些細なように見えても、様々に影響します。特に聖書の中に繰り返し出てくるテーマなのですが、このことは神からの賜である平和について言えるのではないでしょうか。次のような箇所があります。「主が民を祝福して平和をお与えになるように。」(詩編29:11)「私は平和をあなたがたに与える、世が与えることが出来ない平和を。」(ヨハネ14:27)「互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:49) 福音書は私たちの生き方として与えられています。聖書には霊に促された問いがたくさんあります。あなたはどこにいるのか? あなたの兄弟はどこにいるのか? エリヤよ、あなたはここで何をしているのか? アンデレ、あなたは何を求めているのか? あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者があなたにそう言ったのです? ‘おかしな疑問’が頭に浮かんだとしても、その疑問に耳をふさがないようにしましょう。なぜなら、私たちを促し、この問いを投げかけ、私たちが当たり前だと思っていることをもう一度振り返ってみるように呼びかけているのは、いのちの与え主である霊だからです。人生のどの段階にあっても、精神の春があり、私たちを待っています。問いを発し続ける真理の霊で、古い葉をふるい落としていただき、精神の春を取り戻しましょう。
北米先住民チェロキー族の長老が孫たちに人生について教えていました。"わしの中でな、闘いが続いておるんじゃ。2匹のオオカミが物凄い取っ組み合いをしておるんじゃよ。"と言った。
"1匹は悪いオオカミでな、恐れ、怒り、妬み、悲しみ、悔やみ、欲張り、傲慢、自己憐憫、罪の意識、憤り、劣等感、うそ、思い上がり、競争、優越感、自我がそれじゃ。
もう1匹はよいオオカミで、喜び、平和、愛、希望、分かち合い、落ち着き、謙遜、親切、善意、友情、共感する心、寛大な心、真理、思いやり、信仰じゃ。この同じ争いがお前たちの中でも起こっているのだよ。他の人たちの中でも同じなんだ。"
孫たちはおじいさんの言ったことを少しの間、考えていました。一人の子が尋ねました。"どっちのオオカミが勝つの?"チェロキーの長老は単純明快に答えました。"お前が餌をあげる方だ。"
静けさの神、創造的活動の神よ、今日、私たちが静けさを見つけられるよう助けてください。創造的に生きて、内的沈黙の意味を見出し、世界を癒すことが出来る知恵を学ぶことが出来ますように。
あなたの静かで細やかな声を聴きたいと待ち望んでいる人々が、その声を聴くことが出来ますように。
一考察 (2014年10月)
10月は「世界宣教の日」を祝いますが、その日は特に、いただいた信仰の恵みと、その恵みを人々と分かち合う機会が与えられていることに感謝する時であると思います。またその日は信仰を育み、今、置かれている場でその恵みを分かち合う相応しい方法は何かを探すことに私たち自身を開く時でもあります。もし、まだそれをしていないのであれば、聖書を使って祈る創造的な祈り方を試してみることは助けになるかも知れません。何を意味しているのかを探すのではなく、ただ、神のことばが"語る"ままに任せることです。意味を知りたいと思う人は、別の機会にすることも出来るでしょう。
毎日、ニュースを聞き、私たちの周りで起きていることを見ると、神はどこにおられるのであろうかと考えてしまうことがあります。キリスト者として、私たちには日々の生活の中で福音的価値観に触れ、導かれる機会が与えられています。そのために、私たちは他者に手を差し伸べ、彼らの痛み、苦しみが知られないままに置かれることはないと、彼らを安心させることが出来るのです。イエスはご自分のメッセージを伝える時、なぜ度々イメージや物語を使い、たとえ話で話されたのでしょうか。それぞれの話す言語、文化、経験等の違いによると思いますが、私たちは微妙なニュアンスのある、やや異なった聞き方をする傾向があるからかもしれません。イエスは普通、たとえ話の説明はしませんでした。話しに共鳴し、語り掛けに耳を傾けていれば、たとえの意味が分かることをイエスはご存知でした。他方、単なる傍観者として聞いている人、あるいは反対の立場を取る人が大切なメッセージを理解することは難しいでしょう。
かつて、エレミアが語ったように、イエスは今日も私たちに語り掛けておられます。「わたしはあなたの口にわたしのことばを置く。」(エレミア1:6-7) 私たちに伝えられること・知らされることに開いていましょう。イエスは目の見えない人を見えるように、耳の聞こえない人を聞こえるようにしてくださいました。神がご覧になるように見、神が知らせたいと望まれることを聞くことが出来るようになるため、私たちの多くが今も、この癒しを必要としています。では今日、どのようにしたらそう出来るのでしょうか。"行ないはことばよりも雄弁である"と言われているように、人々は私たちの生き方、大切にしている価値観、人々について話す時の話し方等をよく見ています。私たちが今日、人々に提供出来る"霊的食物"にもう一味加えること、それが私たちに望まれていること・必要とされていることではないでしょうか。"塩に塩気がなくなれば、"何によってその塩に塩味が付けられるか。そのことを私たちはよく考えなければなりません(マタイ5-13)。と同時に、昨日の"解決策"で今日の必要に応えることは出来ないということを私たちは承知しています。
一考察 (2014年11月)
11月は「死者の月」です。私たちに先立って逝った方々を思い起こし、私たち自身もまた人生の旅を歩む巡礼者であることを思う時、いのちの神秘のことが湧き上がってきます。人間は意味を探求する存在ですが、私たちは今、この時、生きる意味を深く考えるように招かれているのはないでしょうか。
福音のメッセージを生きるようにと私たちは今、呼びかけられています。それは、日々の生活のあわただしさから一歩退いて、イエスが伝えてくださったメッセージの深い意味を汲み取るようにとそっと促す聖霊の囁きに波長を合わせる空間を自分の中に設けるということです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい…」私たちは神と共に、人々に"旅路の糧"を与えることに参加するよう招かれているのです。神のお望みが何であるかを知っている人、出会う全ての人に「神はあなたを通して、私に何かを伝えたいと考えていらっしゃる」と言える人は幸いです。
人々に優しく出来る人、真実を穏やかに伝え、防御的にならない人は幸いです。人と関わることが出来る人、生きていく中で体験する喪失を受け入れようと努力することが出来る人は幸いです。自己の存在の内奥に"飢えと渇き"があることを知り、どのようにしたら私は、人々がそれぞれ置かれている場に相応しい応えを見つける助けになれるかを知っている人は幸いです。
人の過ちを赦し、それを忘れることが出来る人、どのような情況にあっても、全ての人に愛の手を差し伸べることが出来る人は幸いです。人々が必要としているものは何かを自分で考えるのではなく、神が他の人々に何を望んでおられるのかを知ろうとする人は幸いです。神が自分の中におられることを知り、人生の困難や苦しみに直面する心構えのある人、違いを受け入れ、神の存在に対する深い意識を持っている人は幸いです。平和のために祈ることは、平和を実現し、和解を促進する人になることよりも簡単です。真実を求め、そのために声を上げることを恐れない人、他の人を守るために話さなければならないと促しを感じた時に沈黙したままでいないで、より貴い価値のためには、誤解されることをも引き受けることが出来る人は幸いです。
一考察 (2014年12月)
「ただ立っていないで、何かしなさい。」とはよく耳にすることですが、待降節はそれとは逆に、「何かをしなくてもいいから、ただそこに立って、待ちなさい。」と呼びかけています。依存症の多くは待つことが出来ない、即ち、今、その瞬間、そこにいることに耐えられないことによるものです。この待つという空間に入るなら、信仰の声、荒涼とした現代の'喧噪'の只中で聞いてほしいと願っている声に耳を傾けるようにという招きを受けます。それは、静かで優しい声です。私たちは単に過去の出来事を記念する準備をしているのではありません。むしろ、現代に生きる私たちの中に、いろいろな方法で現存しようとなさっておられる神に、私たちの"ドア"と"窓"を開くことです。今、私たちは福音の真の価値を再び生き生きとしたものにするよう招かれているのです。福音の真の意味とは、イエスが私たちの間に来られることそのものにあるビジョンです。私たちの多くは待つことを知らない社会に生きているという自覚はあります。物凄い量の広告の中で、私たちは、私たちの内的世界が眠らされ、時の感覚を失う危険を冒しているのではないでしょうか。1年の内の今はどんな時で、どのような意味があるのかを忘れるという危険を・・・。聖書は、「注意して…目を覚ましていなさい」と私たちに呼びかけています。神の現存のしるしに気づくために自分を開いているようにと。私たちは、神が忍耐深い方であるとの思いを新たにします。神は生きる意味を深く考えるようにと私たちに呼びかけておられます。深い考察のプロセスの中で、福音の価値観と響き合う私たちの生き方に何か変化をもたらすことが出来る方法に気づくかもしれません。「よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ロマ書 10:15)
聖フランシスコがもう一人の修道士と一緒にアシジの町を歩いていた時の話を思い出してみましょう。町に入る直前、フランシスコはその修道士の方を振り向き、アシジの町で説教をし、福音を伝えようと考えていると語りかけました。町の通りを歩きながら、フランシスコは笑ったり、子供と遊んだり、具合が悪くなり、道端に休んでいる人に声をかけて慰めたり、妻を亡くしたばかりの老人と一緒に祈ったりしていました。町を出る時になり、仲間のその修道士はフランシスコを見て、言いました。「確か、説教しながら、福音を伝えると仰っていたと思いましたが…?」フランシスコはそれに答えて、言いました「私のしたことが実は、それだよ」と。私たちは往々にして、そうとは気づかずに神に対する自分たちの期待を祭り上げていることがあります。ありふれたことに期待をかけます。事実、神は日常性の中、私たちが想像もしない、ごく普通の出来事の中におられるのです。待降節は、福音の価値観を見つめ直す時、大切な方が来られるのを"待つ"、この特別な季節、イエスのビジョンに近づく時です。今年のクリスマス、主の馬飼は私にとってどのような意味があるのでしょうか。私はどのような場所に、主を見つけるのでしょうか。「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。神は来て、あなたたちを救われる。」(イザヤ 35:4)
一考察 (2015年1月)
新しい年になりました。皆様の中には、去年を振り返り、これから始まる新しい年への期待に胸を膨らませておられる方がいらっしゃるかもしれません。三人の博士たちになさったように、神は人生の旅路を導く"光"を私たちにもお送りくださるかも知れません。誰かが言ったこととか、読んだ本の中に書かれていたこと、あるいは、何かの出来事を通して知らされるのかも知れません。その結果、"別な"道を通って旅を続けるように導かれていると感じるかも知れません。聞いて、そして気づくようになるための時間とスペースを取らない限り、普通、このようなことが起こることはないでしょう。教皇フランシスコによれば、"コンピューター世界の公道を行く単なる通行人"であるだけでは十分とは言えません。これを聞くと、私たちは聖書に書かれているよきサマリア人のイメージを思い浮かべます。これは現代世界にとってかなり重大な課題、チャレンジになり得ます。今日の世界は、"インスタント"とか、あるいはそれに類似したことばに特徴づけられる世界です。三人の博士たちの中に、私たちは探求する人々の姿を見ます。彼らは星を見つけるために絶えず注意していました。星を見つけなかったならば、彼らが旅に出ることはなかったでしょう。私たちの進む道筋でいつも最初に行動を起こすのは、歩みの途上で感じられるかも知れない促しに注意深く耳を傾けるように招いておられる神です。しかし全ては、私たちが立ち止り、その促しに気づくかどうかにかかっています。自我は、ことばを使って欲しいものを手に入れるが、魂は、沈黙の中で必要なことを見出すと言われています。立ち止まり、聴くための時間を取って、考察し、祈るなら、人生の旅路の中で自分が今、どこにいるのかをはっきりと知ることが出来るでしょう。初代教会は「その道」と呼ばれていましたが、「その道」とは、愛、慈しみ、非暴力、共感、奉仕、正義、平和の道でした。しかし、時の経過と共に、権力と特権が入り込み、つまずきの石となってしまいました。今、教皇フランシスコはこれらのことについて少しずつ私たちの注意を喚起し、互いに福音を分かち合うようにと私たちを招いておられます。「変わることのない新しさを認識してもらえる語法をもって不変の真理を表現するために、つねに注意を払うよう求められています。」(福音の喜び 41) 「教理を教えるときにはいつも、親しさと愛とあかしによって心からの賛同を呼び起こす宣教者の態度が必要であることを心にとめなければなりません。」(福音の喜び 42) このことは、ルカ9章で言われている福音のメッセージにつながります。使徒たちは自分たちの生き方を通して、神がおられることを告げるために派遣されました。そして、使徒たちは人々と関わり、彼らの言うことに耳を傾けました。ルカ19章の最後には、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」と書かれています。
一考察 (2015年2月)
2月は第3主日までマルコ福音書(1:21-45)が朗読されます。その中で私たちは2月下旬から始まる四旬節へと徐々に準備されていきます。そこには大いなる癒し人としてのイエスの姿があります。大抵の場合、始めにイエスは「何をしてほしいのか」と尋ねます。そして、イエスの教えは聞く人々に深い印象を与えたと書かれています。また、宣教活動をなさっておられる最中にも、イエスはかなり長い時間を取って、"人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた"(マルコ1:35)とも書いてあります。私たちはキリスト者として、イエスが模範として残された"道を歩む"招きを受けています。私たちにとってイエスは"道、真理、命"です。ですから、人生の道を歩んでいる今、この時に、イエスの"道"は私たちにとってどのような形なのか、私たちを生きいきと生かすものは何なのかを深く考えるために、私たちも自分のために時間とスペースを取りましょう。
2月1日はアイルランド・キルディアの聖ブリジッドの祝日でした。聖ブリジッドは5/6世紀に生きていたすばらしい女性ですが、彼女の深い霊性と貧しい人々に対する制限を知らない愛と慈しみは本当にすばらしいものです。彼女のシンボルとして今に至るまで残っているのは、イグサで編んだ十字架です。病気の人を見舞いに行った時、彼女は道の途中で立ち止まり、イグサを摘み、それで十字架を編みました。そしてその十字架で病人を祝福したのです。すると、病人は必ず慰めを受け、癒されるのでした。十字架を編む時、人生を織りなしている一本一本の糸は皆つながっていることに気づきます。そのつながりは単なる偶然ではなく、私たちの人生に神が現存しておられることの現れです。どの福音書も、イエスの話しを聞いた人々は、それが権威ある新しい教えである(マルコ1:27)ことに気づいたと伝えています。立ち止まって、振り返り、耳を傾け、祈る時を取りましょう。一日を過ごす中で、思いもつかないような方法で、その時々に私たちに語りかけられる神の呼びかけを聞くためです。そのためには自分を開いていることが求められます。自分で作ってしまう"枠"を越えて見る見方をするようにと招いている霊のかすかな動きに耳を傾けましょう。そのプロセスの中で、私たちの前には何かがあると分かっていても、私たちは時に、無意識のうちにそれを脇に押しやっているかもしれません。神は気づかせようと、私たちの肩をそっと押してくださいますが、私たちの自由も大切にしてくださいます。私たちが気づかないふりをしようとしている何かに"はい"と答えるのを待っておられるのかも知れません。私たちは福音の価値観に沿った生き方を探し求めています。ですから今、この時、神の忍耐強いなさり方に信頼していきましょう。
一考察 (2015年5月)
皆さんが考える世界の七不思議は何かと尋ねられた学生たちが答えました。票数の多い順に挙げていくと、エジプトのピラミッド、タジ・マハール、グランド・キャニオン、モハーの断崖(アイルランド)、ニューグレンジ(アイルランド)、聖ペトロ大聖堂、中国の万里の長城となりました。票を集めている時、先生は、一人の学生がまだ書き終えていないことに気づきました。先生がその女子学生に尋ねると、余り多くて、どれにしていいか分からないという答えでした。「では、あなたの七不思議はどんなものか聞かせて。」と興味を持った先生は尋ねました。その学生は「見ること、聴くこと、触ること、感じること、笑うこと、愛することです。」と答えました。彼女の世界の七不思議、七番目の最大の不思議は何かとクラス全体は期待でしんとなり、彼女の答えを待ちました。「私たちに対する神の驚くほどの愛です。」と静まりかえっているクラスに、彼女はそのように言い終えました。
福音書の中でイエスは私たちにそうあって欲しいと望む、人との関わりを説明するため、ぶどうの木のイメージをお使いになります。"わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。…ぶどうの枝が、木につながっていなければ実を結ぶことができない。"(ヨハネ15:4) 現代のコンピューター全盛の世界に生きている私たちは膨大な情報に溺れてしまう危険と隣り合わせです。無視されたり、軽視される危険のある内的生活を深めるため、定期的に自分のための時間と空間を取ることはよいことだと思います。更に深い望みを抱いている自分に聴くということは私たちにとって、絶えざる挑戦・課題です。イエスは福音書の中で度々尋ねておられます。「何をして欲しいのか」と。私が本当に望んでいるのは何なのか。私たちの中には、マルタとマリアの両方がいます。福音を告げ知らせたいと望み、活動的に忙しく働いている自分。他方、マリアのように主の足元に座っている自分。両方とも必要です。二つの間のバランスを取ることが大切ですが、それはなかなかの課題です。ですから、私たちには神の導きに開いていたいという望みと知恵が必要なのです。
一考察 (2015年9月)
9月の主日のミサは、マルコ福音書が朗読されます。神のことばはただ読んで、その意味を考えるためだけではありません。大切なことは、神のことばは私たちの生き方を導くガイドであるということです。みことばの理解を助ける聖書註解書がたくさんありますが、その第一の目的は、私たちが心を開き、一人ひとりに向け発せられているメッセージに気づくことです。そのためには、立ち止って、自分の生き方を振り返るための時間をとることが必要です。そうすれば、“今、しなければならない”と思っていることをひとまず脇に置いてみなさいという促しに気づくかもしれません。福音書には、イエスが耳の聞こえない人を聞こえるように、また口のきけない人を話せるようにしてくださったことが書かれています。(マルコ 7:37) この箇所を黙想すると、私たちがたとえ、どのような状況におかれたとしても、私たちの意識をブロックしているものに気づくかもしれません。イエスはこの人を群衆の中から脇に連れ出していますが、それは、私たちが場を離れ、自分のうちに湧き上がってくる思いに耳を傾けるための時間をとる必要があることに気づいてほしいということでしょう。そして、それに気づけば、変えなければならないことを悟る妨げになっているのが何かをもっとよく知ることが出来るようになるかもしれません。そうすれば、私たちの目は新たにされ、勇気と思慮・分別が与えられ、これから起こるかもしれないことに対処することが出来るようになるでしょう。私たちは、困っている人、自分の問題が何なのかも分からず、また、それを自分のことばできちんと表現できない人をイエスのもとにつれてくる人たちの役割がどのようなものであるか分かっています。私たちの目が開かれ 、今この時、神が私たちをどこに導いて行きたいと望んでおられるかを悟ることが出来るよう願っています。教皇フランシスコは私たちにいくつか質問を投げかけ、私たちが時々それについて自問してみるように促しておられます。1)私たちは福音のメッセージが発するチャレンジに本当に開いているでしょうか。2)例えば、何か決断しなければならない時などを含め、福音書が私たちの日々の生き方の「マニュアル・手引き書」になっているでしょうか。私たちは福音書から非常に多くのチャレンジを受けています。福音書は根本的に自分を変えていく、誠実な生き方を私たちに問いかけています。聖書を読むこと、聖書研究も大切ですが、ただ読むだけでは充分ではありません。黙想するだけでも充分ではありません。イエスが私たちに求めておられるのは、福音を実際に生きることです。即ち、ことばを越えた先へ思いを巡らし、神が造られたすべてのものを賜としていただき、感謝するとともに、私たちの日々の生き方を深く考察することです。教皇フランシスコは私たちに、一枚の葉っぱ、山中の小道、一滴の露、貧しい人の顔に隠されている神秘の意味を思い起こすよう呼びかけておられます。(回勅「ラウダト・シ」233) そうすれば、私たちと共に人生の大海原を歩んでくださるイエスに度々出会うよう、導かれることでしょう。
一考察 (2015年10月)
聖書には“神の言葉は生きており、力を発揮している”と書かれています(ヘブライ4:12-13) が、そのことはマルコ10:17-30にある金持ちの男の話しの中で説明されています。富と言うと普通、私たちはお金に結びつけて考えがちです。しかし、ここではもっと広い意味があると思います。むしろ、それは、いただいているいのちの賜-健康や与えられるチャンス、経験等-を生きる生き方に関係しているのではないでしょうか。イエスは「持っている物をすべて売り払う…」よう、私たちに呼びかけておられます。それは、他者の必要や自分の人生に起こっていることに気づくのを妨げているものから私たちを解放することへの呼びかけです。近年、私たちが重宝して使っている最新の機器が現代世界の現実を見えなくしている危険があります。教皇フランシスコも、最新技術が圧倒的に優位を占め、私たちを盲目にし、人間そのもの、そして、なくてはならない大切な全被造物の尊厳を見えなくしている危険があると言っておられます。私たちは互いに依存し合っている関係にあると知れば知るほど、一人ひとりのライフスタイル(生活形態)が他に及ぼす影響について深く考えることが大切になってきます。福音書には、イエスがご自分に従ってくる人たちを導き、見えない状態から見えるようになさったことが書かれています。それは、日常生活の中で、ある時間を割き、自分の人生を振りかえるようにとのイエスからのチャレンジです。祈りとは私たちが口にしていることばではなく、神が私たちを導きたいと思っておられることを聴き取る力です。最近、教皇フランシスコは私たちを環境と共同体への回心へと導いておられます。立ち止まって、聴き、考察し、祈り…いのちへのまなざしと私たちの決意を新たにするため、私たちには安息の時が与えられています。教皇フランシスコが挙げておられる祈りの一つに、創造されたものにコミットするよう、私たちに呼びかけている祈りがあります。それらの創られたものは、イエスが私たちの目前においてくださったものです。次はその祈りからの引用です。“三位一体の主、無限の愛であるすばらしい共同体、私たちに教えてください。宇宙の美しさの中にあなたを観る(観想する)ことを。なぜなら、すべてのものはあなたについて語っているのですから。あなたが創られた生きとし生きるすべてのものに対する賛美と感謝を私たちの内に呼びさましてください。愛である神よ、見させてください、この世界にある私たちの場を。私たちはこの地球にある創られたすべてのものに対するあなたの愛の道具として存在しています。そのうちの一つとして、あなたの目に忘れられているものはありません。権力と富を持つ人々を照らし、彼らを無関心の罪から遠ざけてください。”
一考察 (2015年11月)
私たちは益々、互に連絡し合う度合いが増してきている世界に住んでいます。特に電波の世界は、それが顕著です。それ自体は皆よいことですが、一方、従来の、人と人とが直接関わり合うこととは同じでないということにも気づいています。教皇フランシスコはよきサマリア人のたとえを引き合いに、デジタル世界の中の単なる通行人であるだけでは十分ではないと仰っています。自分を振りかえるスペースを取らなければ、体験を本当に自分のものとして体験しているとは言えません。また、個人の自律が人生の事実上の目標になってしまう危険があります。よく考えてみれば分かることですが、‘他の存在’なしに生きる意味はありません。チャレンジを受け取り、いただいている賜物を使い、皆にとってよりよい善のために貢献しようではありませんか。“一人一人に‘霊’の働きが現れるのは、全体の益となるためです。”(1コリント12:7) 諸聖人の祝日を祝うこと、それは私たちの間で神がお働きになっていることを祝うことです。“促し”に開いていること、それが私たち一人一人に対する呼びかけであると思います。柔和な人、真実を静かに語り、防衛的になるのを避ける術を知っている人、他を尊敬し、大切にすることがその人の力になっている人、人を励ますこと、何かを築き上げることを中心に、いただいている賜物を、人を支配するためではなく、寛大に使うことが出来る人は幸いです。一人の男を癒された後、イエスは“このことを誰にも話してはならない”と仰せになりました。もしかしたら、それは、よく祈り考えて、あなたの生き方そのものに‘話させなさい’という呼びかけかも知れません。ルーミー(訳注:およそ1207~73年頃のイランの神秘主義詩人)の夢も私たちへのメッセージではないでしょうか。“正しいとか間違っているとかの考えを超えたところに一つの場があり、私はそこであなたにお会いするでしょう。” 私たちが“新しい場”に呼ばれていると感じられる方法が何かあるでしょうか。“私たちのうちに働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえてくださることのおできになる方に、栄光がありますように。” (エフェソ3:20)
一考察 (2015年12月)
12月は待降節、“待つ”季節です。この時はまた、神が例外なく、私たち一人ひとりに対して持っておられるいつくしみ深い愛と配慮に思いを寄せる時でもあります。洗礼者ヨハネと同じように、教皇フランシスコは私たちに和解を呼びかけておられます。私たちは、この呼びかけがただ戦禍を被っている地域にのみ向けられたものと考えるかも知れません。しかし、心理学者は次のように述べ、私たちに再認識を促しています。世界で起きていることは私たちの内面の反映である。すなわち、世界の出来事は私たちが自分自身、および他に対して抱いている思いを反映しているものであると。ですから、私たちが自分自身と他に対する否定的な思いを持ち続ければ、持ち続けるほど、肯定的な考え方を育む余地がなくなり、社会全体にその影響をおよぼすことになります。イエスはこの世に来られ、拒絶、誤解等を経験されました。しかし、イエスは私たちにご自分のいのちをお与えになりました。イエスには馬小屋の他に居場所がありませんでしたが、それでも、イエスはこの世に来られました。ザカリアが口がきけなくなったという話(ルカ1:20)は、ザカリアに伝えられた神秘の深さを受け取るために必要だった時間の深い意味を表わしていると思います。私たちも、自分に起こっていることを深く考えるために時間を取ることが大切です。“マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。”(ルカ2:19) 12月8日、無原罪の聖マリアの祝日に、私たちはマリアの召命とも言えることを記念し、祝います。マリアもいただいたメッセージを理解し、自分のものにするために時間が必要でした。マリアは自分に起こったことをもう一人の女性と分かち合うため山里を旅していた時に、このことを思い巡らしていたに違いありません。互いに支え合う二人の女性――感動的な物語です。人生の曲がりくねった道、でこぼこ道を歩いている私たちは、“山と丘は低くされ、曲がりくねった道はまっすぐに、険しい道は平らにされ、人びとは皆、神の救いを見る”と言うイザヤ40:3のことばに力づけられることでしょう。現代の荒野に生きる私たちも、人生の一部になっている深い谷や山に道を備えるよう呼びかけられているのではないでしょうか。特に、気候変動の分野に言えることだと思います。私たち一人ひとりのほんの小さな行動が変化を生むことに寄与できるかもれしません。最近出された教皇フランシスコの回勅は非常に説得力のある、しかしとてもシンプルなメッセージで始まり、同じメッセージで終わっています。私たちは自然も人も新しい目で見なければなりません。自然を利用する方法を考える前に、私たちは自然を観想する力を取り戻し、自然を存在させてくださった神、私たち人間をも存在させてくださった神に賛美を捧げることが大切です。その観点に立てば、世界の気候変動の影響に対する私たちの意識が増してゆくことでしょう。
一考察 (2016年1月)
新年を迎え、様々な期待や願い、気がかり、決心等を心に持っておられることでしょう。それらは大抵、昨年、経験したことから出てくるのかもしれません。予見出来なかったこと、思いがけないことを含め、どんなことであれ、基本的に私たちに起こることに開いているよう、私たちは招かれています。大切なことは、日々の“今”のこの時に応えることではないでしょうか。毎日、時間を取って、聖書のみことばを祈ることを続けて行けば、自然に私たちの前に“新しい扉”が開かれるかも知れません。そして、気がついてみると、毎日の生活の中で福音のメッセージを生きる、型にはまったパターンからより深い気づきに徐々に変わっていたということになるかもしれません。
神の言葉は生きています。私たちにみことばを受け入れる用意があるなら、みことばは私たちの中で力を発揮されます。(ヘブライ4:12)
今、私たちが尋ねたいのは、もし、私たちに神のみことばから受けるチャレンジに開いていることが出来るなら、どのようにしてそれが出来るかということです。私たちの日々の生活の中、また、何か決断しなければならない時、福音が本当に私たちの“手引き”になっているでしょうか。預言書イザヤの中に、“立って、光を放て”という箇所がありますが、私たちの歩む道筋で私たちを導くのは神の光であることを信じ、勇気をもって立ちあがるよう、私たちを招いています。人びとに親切にし、力づけるために、個人主義や型にはまった行動・思考様式から抜け出るよう招かれています。毎日、福音を読み、黙想し、祈る、いわゆる福音に根差した霊性が求められています。それはまた、管理したい、コントロールしたいという欲望から責任を分かち合う方向への私たちへの招きです。教皇フランシスコが「福音の喜び」の中で書いておられる呼びかけに心を留めてみましょう。“私はすべてのキリスト者に、どのような場や状況にあっても、今この瞬間、イエス・キリストとの人格的な出会いを新たにするよう呼びかけたいと思います。少なくともイエスとの出会いを妨げないよう、日々努力することを勧めます。だれもがそう招かれています。「主によってもたらされる大きな喜びは、だれをも除外しない」からです。小さな一歩であってもイエスに向かって歩み出すならば、イエスが両手を広げてその到着を待っていることに気がつくでしょう。”
一考察 (2016年2月)
私たちは神の現存に達することは出来ません。なぜなら、私たちは既に神の現存そのものの中にいるからです。その認識がないのです。神の愛が私たちの呼吸、一息一息によって私たちを存在せしめていることを私たちはあまり知らずにいます。別な言い方をするなら、神は今のこの一瞬一瞬、私たちを選んでおられるのです。私たちが到達すべきこと、学ぶことは何もありません。むしろ、学んだことを手放すことが必要なのかもしれません。
日常の中で神のいつくしみ深い現存に気づくために、人間の文化は集団として催眠状態にあるということを容認しなければならないのかもしれません。私たちは夢遊病者です。人間は自然的にはものを見ること出来ないとは、偉大な宗教的指導者たちが皆、認めているところです。見方を教えてもらわなければなりません。イエスはさらにまた、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(ルカ11:34)と言っておられます。
宗教が教えるところは、ものの見方と現実に対する私たちの在り方です。仏陀とイエスが声を揃えて「目覚めていなさい」とおっしゃるのはそのためです。イエスは、マタイ25:13、ルカ12:37、マルコ13:33-37で「目を覚ましている」ことについて語っておられます。また、仏陀とはサンスクリット語で「目覚めた者」という意味だそうです。祈りとは本来、ことばを発することでも、ものごとを考えることでもありません。祈りとはむしろ、心の姿勢です。神の現存の中に生きる生き方であり、神の現存の認識の中に生きること、神の現存を喜び楽しむこととさえ言ってもいいのかもしれません。観想者はいつくしみ深い神の現存を認識するだけでなく、神の現存に信頼し、ありのままに喜ぶ人です。すべての宗教的修練は一つの目的のためです。すなわち、私たちは何者なのか、何が起こっているのかを理解し、悟ることです。愛とは何か。それは愛そのものである神です。愛はどの瞬間においても、私たちのいのちの現実として神を譲渡しておられるのです。私たちは何者かと問うなら、私たちは愛です。なぜなら、私たちは神にかたどって創造されたからです。何が起きているのか。神が愛として、私たちの内に生き、私たちと共におられ、私たちを通して生きておられることです。
ジョージィナ・クレアソンIJS
一考察 (2016年3月)
四旬節を過ごしているこの時、私たちは神のあわれみを改めて心に思い浮かべていることと思います。父親と二人の息子のたとえ話(ルカ15:11-32)には、いつくしみとゆるしを与えようとしておられる、あわれみ深い神の姿が描かれています。弟は父親から貰ったお金を、無駄遣いしてしまいましたが、そのような息子を父親は心の底から喜んで迎え入れました。父親が弟のために開いた宴会の様子から、それがよく分かります。ところが、兄の方は、勝手に家を出て行き、お金を浪費した弟のために豪華な宴会を開く理由がどうしても納得出来ません。父親は息子にゆるしのことばを言うことさえしませんでした。父親のとった行動そのものが彼の思いを鮮明に表わしています。このたとえ話の中で、イエスは神がどのような方であるのかを描いています。私たちがあちらこちらと何度‘道’から逸れても、諦めたりなさいません。きれいな服、指輪、祝宴は、神に立ち返った人が体験する新しいいのちを象徴しています。この息子は家から遠く離れたことで、自分自身をよく知ることになりました。勝手気ままな生き方をしていたにもかかわらず、父親は尚、自分を愛してくれていること…自分として報いることがなかった愛…に気づきました。
父親は傷ついていましたが、ゆるしています。しかし、兄は間違いをおかしたことはないのですが、人の誤り、弱さをゆるしません。私たちが道を誤っても、神は私たちに見切りをつけたりなさいません。道に迷った者を見つけ、家に連れ戻すことを喜ばれます。“主よ、私があなたの愛を疑ったり、あなたが私にお示しくださるあわれみを決して当たり前と思ったりしませんように。あなたがあわれみ深くあられるように、私もあわれみ深い者となれるよう、すべてを変容させる力のある愛で私をいっぱいにしてください。”この物語は、(a) 回心した弟を喜んで家に迎える父親の姿、(b) 自分の持ち物を無駄遣いした弟のために父親が開いた宴会は贅沢で受け入れがたいと考え、もがいている兄の姿を描いています。イエスは私たちを人間的なレベルから神の愛とあわれみに気づくように導いておられます。神の愛とあわれみは、自分のあやまちを認め、生き方を改め、新たな一歩を踏み出そうとしている人には誰にでも与えられます。外に出て、息子の帰りを待っていた父親は息子を歓迎するために、いつでも祝宴を開ける用意が出来ていました。ここでイエスは、私たちをゆるそうといつも待っておられる神の姿を私たちに示してくださっておられます。私たちが自分の生き方を改め、私たちのために用意されている神のあわれみの賜を受け入れようと決断するなら、神はゆるそうと待っておられるのです。きれいな服、指輪、祝宴は、神に立ち返った人が体験する新しいいのちのシンボルです。兄は‘私の弟’とは言わず、‘あなたのあの息子’と言っていますが、その表現は兄が自分と弟の間に距離をおいていることを表わしています。兄は状況を父親と同じ見方で見ることが出来ません。私たちにも他者の視点で物事を見ることが出来ない時があるかもしれませんね。
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一考察 (2016年4月)
「なんで? どうして?」と問うことも、「私は信じます」と言うのも、「分かりません。理解できません」ということを暗示している表現です。後者の場合は、信仰の精神で受け入れますという積極的な意味が含まれています。福音書には、信じることについて葛藤するトマの姿が描かれています。12使徒の一人が問題を抱えていると知ることは、私たちはある意味、勇気づけられます。トマは答え・証拠を探しているのですが、信仰を持つことイコール答えが用意されているのではないことを改めて認識させられます。弟子たちは見て、信じました。私たちは信仰生活と日々の生活を一つに合わせる方法を見つけるよう、常にチャレンジされています。このことは、めまぐるしく変化し続けるエレクトロ時代の今、特にそうだと言えます。絶えず出てくる新しい情報にはそれなりのメリットがありますが、私たちは立ち止まる時を取ることも大切なことであると問われているのではないでしょうか。ヨハネ福音書にイエスの次のことばがあります。「来て、見なさい。」(ヨハネ1:39&46)「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」(ヨハネ21:12)ここにイエス特有の招きがあることに気づきます。イエスはイエスを見捨てて逃げた弟子たちを責めておられません。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」(ヨハネ10:27)立ち止まって、聞くことは大抵の人にとって時には、かなり厳しい要求です。待たなければならない時は、不安になったりします。動いているエスカレーターの上で走ることさえあります!答えが欲しいあまり、私たちには自分の内面に触れない危険があります。ですから、時間を取って神秘を思い巡らすことが、神秘を理解しようとすることよりも、むしろ大切なのです。弟子たちがイエスに、「来るべき方はあなたですか」と尋ねた時、イエスの答えは、「気をつけて、しるしをよく見なさい」というものでした。イエスは、弟子たちが自分で見つけて、答えを出すよう、望んでおられたのです。ルーミー(訳注:Jalāl ad-Dīn ar-Rūmī およそ1207年~1273年に生きたイランの神秘主義詩人)は、次のように書いています。“ことの正否の概念を越えたところに、一面の広がりがある”と。
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一考察 (2016年5月)
翼をもった我らの友
“美しい声でさえずる小鳥を除いて、鳥たちが啼かなくなれば、世界はシーンと静まりかえることでしょう。”
ヘンリー・ヴァン・ダイク
友人のジーンがクリスマスに小鳥の餌箱を私にプレゼントしてくれました。人間と共住している翼を持つ我らの友“小鳥たち”を知り、親しくなることが、これほどリラックス出来て、面白く、精神的にもさわやかになれるものはないと分かりました。これを書いている今、外を眺めると、畏敬の念を起こさせるような光景を目にします。フィンチ、シジュウカラ、マヒワ、ベニヒワ、コマドリ、ヨーロッパカヤクグリが飛び廻り、チュッチュッと啼いています。喉を震わせて歌い、おしゃべりしています。それが一つにまとまって、大きな啼き声になり、辺りは美しい彩り、喜び、驚嘆の念、活気、生命力でいっぱいになります。小鳥たちは自由そのものを象徴しています。独自の特性を備えています。強さも弱さも持っています。感情をよく表わすもの、軽い感じのもの、機敏に動くもの、気まぐれ屋、工夫屋さんがいるかと思えば、他方、はにかみ屋、警戒心の強いもの、なわばり意識の強いもの、臆病なものもいます。イエスは言いました。「空の鳥を見なさい」と。それは別な言い方をすれば、空の鳥を観想しなさい、彼らと私たちの生活を分かち合いなさい、彼らの知恵から学びなさい、そして小鳥たちと一緒に賛美の歌を歌いなさいということでしょう。自然界にある他のものと同じように、小鳥たちは神の現存に満ち満ちて、宇宙の物語の中の自分たちの役割を素朴に、そして美しく表現しています。新しい一日の始まりを告げ、陽気な歌声で私たちに挨拶してくれます。そして、種をばら撒き、花の受粉の手伝い、養分を土に戻すリサイクルをするなど、自分たちの使命(ミッション)を忠実に果たしています。私たち人間が環境に対する責任を怠るなら、小鳥たちの生息数が減少し、生存環境の劣悪化という現象に表れてきます。人間が有毒物質や他の汚染物質を無差別に使用し続ければ、小鳥たちに重大な影響が出てくることでしょう。私たちは翼を持つ我らが友に感謝しなければなりません。小鳥たちは、私たちが自由に想像を働かすこと、新しい地平を経験し、更なる高みに到達すること、作詩、作曲、美しい絵を描くインスピレーションを私たちに与え、私たちが単調な日々の生活を乗り切るのを助けくれます。鳥類は本当に素晴らしい生き物です。彼らの内に響いている神秘的な呼びかけに応え、彼らは何千マイルという信じがたいほどの距離を飛ぶことが出来ます。そのことを思う時、大抵の場合、厳しい状況のもとで国外に脱出しなければならない多く人々のことに思いが及びます。また本性として、幸せで喜びに満ちている小鳥たちを見ていると、私たちは、国内、あるいは世界的レベルで数多くの人々が経験している、人を無力にしてしまう苦しみ、恐怖、混乱にもっと敏感でなければならないと思います。
私たちは他者の痛みに共感し、彼らの必要に気づくと同時に、翼を持った我らの友が無償で提供してくれる精神的な高揚や美しさ、小鳥たちの啼き声を人々と分かち合いながら、一瞬一瞬を十全に生きるよう招かれています。
「小鳥は答えが分かっているから啼いているのではない。歌があるから啼いているのである。」
マヤ・アンジェルー
キャサリン・オサリバン IJS
クーリー
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一考察 (2016年9月)
~美しく、神秘的な白鳥~
「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」(マルコ6:31)
白鳥たちは年2回クーリーにやって来て、私たちと生活を共にします。白鳥たちの落ち着いた優美な姿を見ると、絶え間なく沸き起こってくる日々の生活の様々な事がらや、暴力的で混沌とした現代世界の中で生活している私たちにはよい息抜き・気分転換になります。サレイン川の川面を滑るように泳いでいる白鳥たちの際立つ優美さは愛、落ち着き、観想そのもののようです。白鳥たちからあふれ出る平和は、バラバラになっている私たちの生活をつなぎ、調和させて、熱意を沸き立たせ、力づけてくれます。また、白鳥たちの壮麗な姿を見ると、立ち止まって、暫しの時を取るよう誘われているように感じます。そして白鳥の美しさを自分の内に取り入れ、物事の見方を変えるよう促されます。白鳥たちは穏やかにすいすい生きているような印象を与えますが、彼らとて、他の生きとし生けるもの同様、最善も最悪も経験します。相互関係を保ち、群れとしての意識とリーダーシップを取るものに対する分別によって、白鳥たちは降りかかってくる様々な困難に対処します。空を渡る時、先頭を飛ぶ白鳥たちは風の流れをつかみ、空気を循環させて、後続の白鳥たちが上昇しやすいようにします。交代で先頭を飛び、エネルギーを節約し、飛行し易くします。このようにして互いに支え合うだけでなく、一羽が傷つけば、他の一羽がV字隊形から抜け出し、傷を負った一羽が飛べるようになるまで傍についています。その一羽が死ぬ時には、最後まで見守ります。飛行中、白鳥たちは羽を震わせ、互いに交信し合います。そして時折、後ろから鳴き声を発し、前を飛んでいる白鳥たちを励まします。これは上に立つ者、リーダーへの教訓です。
白鳥と言えば、私たちは直ぐに、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」を思い出しますが、この物語は、どのようにして人が理由もなく、環境にうまく順応できないとか、他と違っているというだけで、非難されたり、いじめられたりするかについて語っています。みにくいアヒルの子は自分には価値があると信じ、美しい白鳥になっていきました。今日、消費を煽る多国籍企業は自尊心が低いと私たちに納得させ、自分をよく見せ、自己認識を高めると彼らが強く勧める商品を売り出そうとしています。しかし、自尊心と人間としての美しさは内面から出てくるものです。この事実を認め、受け入れ、一生懸命に生きれば、富や容姿、地位、能力、あるいは人が自分をどのように見みているか(サムエル上16:7)に左右されることはないでしょう。白鳥は私たちへの贈り物であり、恵みです。白鳥たちがクーリーから飛び立つ時は、私たちは喪失感と強い憧れのようなものを感じますが、白鳥の静謐と美しさはいつまでも残ります。“生きている間にはいろいろなことがありますが、それらを美しいものにして行きましょう。”
キャサリン・オサリバン IJS
クーリー
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一考察 (2016年10月)
カラヴァッジオ:聖マタイの召命 ~イエスの招きに応えようとする瞬間を描く~
教皇フランシスコはサン・ピエトロ広場に集まった人びとに「イエスは、罪びとと見られていた取税人を招いて弟子にしただけでなく、いっしょに食事の席にまでついてファリサイ派の人びとの顰蹙を買いました」と語りかけられました。しかし、イエスは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たと言われたと、私たちは教えられています。教皇は続けて語られます。「マタイが呼びかけを受けた時のことを考えると、私たち自身が弟子とされた時のことを思い出します。イエスは私たちの過去を見るのではなく、私たちの将来をご覧になるのです。神の呼びかけに対して謙遜に、そして誠実に応えればよいのだということを私たちに改めて思い起こさせてくださいます。1953年の聖マタイの祝日に、17歳の若いホルヘ・ベルゴリオ(教皇フランシスコ)は非常に特別で、かつ魂に直接触れる神のいつくしみ深い現存を魂の内に経験しました。彼は告解に行きました。そして、彼の心が神のいつくしみに触れたことを感じたのでした。この時の神体験が彼の生き方を変えました。また同時に、司祭になること、イエズス会士として修道生活に入るよう呼ばれていると感じました。その時の思いから、フランシスコは司教叙階の時、そして後に教皇に選ばれた時に、’miserando atque eligendo’ (いつくしみと選びを受けて)をご自分のモットーとして選ばれたのでした。これは元々、聖ベーダのマタイの召命についての説教の中にあることばです。“イエスはマタイを選び、あわれみ深い眼差しを彼に向け、仰せになりました。「わたしについてきなさい」と。”若いホルヘは神の愛と慈しみに溢れた優しい眼差しを感じ、そしてその神の眼差しは彼の人生を変えたのでした。教皇は更に続けて語りかけられます。「イエスの眼差しは常に私たちを高揚させます。私たちを高揚させ、決して裏切ることなく、私たちを前に進ませてくれる眼差しです。イエスが私たちを愛してくださっていると感じさせてくれる眼差しです。イエスに従っていく勇気を与えてくれる眼差しです。
“マタイは立ち上がってイエスに従った。”」教皇フランシスコは長い間、折に触れてローマ市内にあるカラヴァッジオの絵を見、瞑想してこられました。「マタイに向けられたイエスの指……、それは私です。私もマタイと同じ思いを内に感じます。」「私の心を打ったのは彼の仕草です。彼はお金に手を置いたまま、『いいえ、私ではなく!いいえ、このお金は私のものです。』と言っているように見えます。まさにその時、神の恩寵が私に触れ、『はい、私はここにいます。主が眼差しを向けてくださった罪びとがここにいます。』と答えている自分がいました。これが、教皇として、正当な選挙の結果を受け入れますかと尋ねられた時の私のことばです。」彼はラテン語で答えました。「私は重い罪を背負った人間です。しかし、私は主イエス・キリストの限りないいつくしみと忍耐を信じ、苦しみつつお受けします。」
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一考察 (2016年11月)
11月は人間のいのちがいかに脆いものであるかを考えさせられる月です。私たちは始めと終わりがある旅の途上にいますが、私たちキリスト者には、人生の旅路を導く地図として聖書があります。イエスはいろいろな姿を装って私たちの傍らを歩き、私たちが立ち止って、自分自身を振り返り、呼びかけに応えるようにと、私たちを招いておられるのかも知れません。招きとは、誰かのコメントだったり、聖書の箇所、家や教会で静かにしている時だったり、あるいは散歩をしている時にやって来るかも知れません。今、この季節、自然が時の移りゆくままに任せる時-地球上のある地域は他の地域よりも、それがよりはっきり見られると思うのですが-そのことに深い思いをはせる時、何かを手放すことを深く考えるように招かれているのではないでしょうか。そして、人生の旅路を歩んでいる今、それは望ましいことなのかもしれません。私たちは高度に発達した技術、コンピューター時代に生きていますが、そう考えると、私たちは無数の“声”に気づくことが出来るのかも知れません。その声は声を大にして私たちに呼びかけています。私たちがそのうちのどれに最も多くの時間をかけ、注意を傾ければいいのか、そして私たちの思いに浮かんできたことのどこに神がおられるのかを自問してみることは助けになるかも知れません。今この時、聖書は、私たちが人生の旅路を単に通り過ぎているだけであることを考えさせてくれます。人間は意味を探す者です。人生の旅のこの時点にあって、私たちは生きる意味を考えるよう促されています。人生のある時点で、感動した聖書の特別なメッセージ、目が開かれ、新しい目で見るようになったことを思い浮かべるかも知れません。福音書の中でイエスは何度も「何をしてほしいのか」とお尋ねになっておられます。人生の今、この時、私は何と答えるでしょうか。
私たちはそれぞれ、人生という大きなつづれ織りの細い一本の糸であり、それぞれのやり方で全体の善のために貢献するようにと呼ばれています。祈りは、車がトラブルを起こした時に取り出してつけ替えるスペアタイヤではないと言われています。祈りは、むしろ旅をしている時、私たちを正しい道に導いてくれるハンドルなのではないでしょうか。
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一考察 (2016年12月)
皆様方もご覧になられたことと思いますが、11月半ば私も運よく、黒い雲の後ろから出てきた最高に明るい月を眺めることが出来ました。暗闇から光へと移り変わっていくその変化は特別な瞬間ですが、それは、私が長い間、あまり気にも留めずにいたクリスマスのある側面に深く思いを馳せる助けとなりました。世の光であるキリストは私たち人類のためにこの世に来られたばかりでなく、全被造界に現存し、被造界を贖い、照らし、力を与えておられます。個々であれ集合体であれ、極小の原子から空に輝く最も明るい星、また地の果てに住む人にいたるまで、イエスの誕生によって、全てのものは調和のとれた宇宙の中でつながりの輪を見つけることが出来ます。全てを包含する受肉の神秘は深い沈黙、観想と感謝を呼びかけています。聖フランシスコは創られた全てのものの中に言葉には表せない喜びを感じ、動物や自然界に存在するものを兄弟姉妹と呼びました。万物は互いに連繋していると深く理解していたフランシスコのその思いは、1223年のクリスマスに本物の飼い葉桶という形になって表現されました。フランシスコの、この目に見える形となった説教はあらゆる信条と言語の人びとに理解されました。マリアを乗せ、丘を上り下りしたであろう、もじゃもじゃの茶毛のロバ、ベッドとして自分の飼い葉桶を差し出した白と赤毛の牝牛は、羊の群れの番をしていた羊飼いたちに現れた天使たちや東方の賢者を導いた星と同じ大切な役割を果たしました。
“ベトレヘム”は神秘のままですが、しかし私たちは、年々歳々、そこに集まり。うぶ着に包まれている幼な子の前にひざまずき、喜びのうちに礼拝します。魅力があり、リッチで、力のある人びとが優先されるセレブ文化を広めようとしている人たちにとってはいかにも不思議なことに見えるに違いありません。そのような時代の流れ、あるいは“グローバル化している無関心”にとらわれないため、また、環境破壊が何ら問題にされないままにおかれることを避けるため、飼い葉桶の近くに座り、愛が宇宙の中心である一人の弱く、脆い幼な子という目に見える形になったことを観想する時を持つことが大切だと思います。祝いが終わり、ゆらめく灯し火は消え、星は姿を消し、羊飼いたちも群れの番をするために戻っていった時、クリスマスの本当のことが始まるのです。一人ひとり、そして共同体がそれぞれ自分で見つけるべきことが・・・。
“イエスの誕生によって、いのちに対する新たな理解のみならず、新しい生き方が可能になった。”
(フレデリック・ブレヒナ―)
キャサリン・オサリヴァン IJS
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一考察 (2017年1月)
“光あれ”(創世記 1,3)
新しい年になり、2016年は自分にとてどのような年だったのか、振り返らずにいられないのではないかと思います。壊れている世界を眺めれば、トラウマを抱えた家族、地震、そして大地と同様、揺れ動く政治、戦争、テロ、終わりのない難民の行列や人身売買などが見えてきます。いのちはいとも不安定で、私たちは最早、自分の愛する人びを守ることが出来なくなっていると感じます。無力感を感じ、覆いかぶさる闇に直面し、どのようにしたら希望を持ち続けることが出来るかと考えてしまいます。クリスマスの夜の闇の中に現れたかすかな光や、世の始め、地が形なく、野の木も、野の草も生えていなかった時、神が発せられたことば…“光あれ”と言われるとそのようになった…を見落としてしまうのは、いとも簡単です。世界が最も深い闇の中にある時に光が現れました。このようなことを考えている時、コンクリートの表面にある裂け目から生え出ている雑草に目が留まりました。その雑草は細い一条の光に引きつけられ、信じがたいほどの固さを突き破って芽を出しました。その週、私はずっと、誰も決して思いつかないような場所に成長するいのちについて考えていました。廃屋の屋根を突き破って生えている木や金属パイプ、アスファルト舗装の駐車場に捨てられている車やブーツの中で元気にたくましく生きている雑草を見ました。畏れを抱かずにはいられないこれらの植物たちは長い暗闇の時を受け入れなければなりませんでした。花を咲かせる前、太陽の光が植物たちに伸びていく方向を示してくれるのを辛抱強く待つのです。極く微かな隙間が頼みの綱となり、厳しい環境から彼らを解き放ち、知らない間に新しいいのちを生み出すのです。しなやかさを備えたこの植物たちは、逆境や心に闇を抱えていても、光に向かって進み、希望を持ち続けるようにと私たちに教えています。彼らは私たちに考え直し、新たに焦点を定めてみるようにとチャレンジしています。そして、災害時にあって私たちがただの傍観者や解説者でなく、視線を光の方向に向け、他者の光となるようにと私たちを招いています。苦難、悲しい出来事、病気の経験を通し、私たちは心痛をもたらす状況に対し、月並みの信心深いことばなど差しはさむ余地のない、本物の勇気、粘り強さ、癒しの光が与えられます。
生きることがたとえどのように厳しく、困難であっても、光に向かって歩んで行きましょう。たとえ、その光がどんなに微かなものであっても…。そして、人々が道を見つけるための足掛かりを残して行きましょう。ボンヘッファーが私たちの信仰に訴えています。“望むすべもない時にこそ望みを持たなければなりません”と。
キャサリン・オサリヴァン IJS
クーリー
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一考察 (2017年2月)
色合い、溶け合う色、きらきら輝く色
“自然界のいのちにはいろいろな色があり、それぞれに美しい。暗い感じのする濃い色でさえも……。 色がそこにあるのには、それなりの理由があるのだ。”スティーブン・キング
これを書いている今、クーリーの空は昇る朝日に輝いていて、私は生きている喜びに包まれています。 ワーズワースの詩の中にあるのですが、“空にかかっている虹を見て”も、あるいは、“野原一面に広がるラッパ水仙がそよ風にゆらゆら揺れ、踊っている”のを見ても、心躍るような気持にならない人たちがいます。色のない自然界はとても暗いものでしょう。色は私たちの一日を明るく照らします。私たちは触発され、内省的、創造的になりますが、色彩はその助けをしてくれます。その結果、癒し、平和、調和がもたらされます。芸術家たちは究極の美を追求し、色彩に秘められた真髄を捉えようと時間を費やします。彼らは様々な色を混ぜ合わせ、異なる色調を用いて、色彩どうしの複雑な相互作用を生み出して、美しい作品を描きます。それらの作品は、世界を見る新しい見方を私たちの目前に広げてくれる力を内に秘めています。宇宙はいのちと色彩に満ちています。そして一日、一日、私たちの前に、“フィンチ(訳注:鳥の一種)の羽”“泳ぐマス”(ホプキンズの詩からの引用 訳注:英国の詩人・作家)、人びとの顔、夕日、茜色に映え、光と影が交錯する丘に刻まれたワンダー(感嘆)物語が新たに開かれます。残念ながら、私たちは物事を、暗いプリズムを通して否定的に見る傾向を持つ世界に住んでいます。そして、この混乱している状況は私たちの限界を越えていると言い訳を言うきらいが、私たちにはあります。しかし、混沌としたこの世界に新しく、しかも遠大な芸術的フォルムを生み出した芸術家たちが大勢います。1月15日の日曜日は移住者・難民に捧げられた日です。それに続く一週間、私たちは、居場所を求めて我が国の海岸に辿りついた人びとに何か応えなければならないという呼びかけを受けました。
セルビア、ラトヴィア、ポーランド、ハンガリー、英国、インド、オランダ、フィリピンから、仕事と生活の場を求めてやって来た人びととの出会いを通して、私の‘パレット’に新しい、いろいろな色がたくさん加わりました。それぞれの光線には固有の耀きと美しさがあります。私たちは皆、生まれながらにして芸術家です。それぞれの生き方というプリズムを通して映し出す色を使い、絵を描いていきます。赤、オレンジ、黄色は人を喜んで迎える温かさを感じさせてくれますし、また、緑、青、紫には人の心に冷たさとか不安、憂い等を伝達する傾向があります。ですから、人びとは私たちに対してどのように感じるのかを直観的に理解し、それに応じて対処していかなければならないのではないでしょうか。もし私たちが、神様の絵筆から生まれた宇宙という作品を映し出したい、見聞きしているものを超えたメッセージを洞察し、伝えたいと思うなら、ゆっくりと時間をかけ、それぞれの住んでいる土地、国や地球規模のレベルで光と影について深く思い巡らすことが必要です。自分の置かれた場で絵を描き始めるのはその後です。そのようにして描かれた絵は人びとの心の中に眠っている美を覚醒させることでしょう。“「心にかけていますよ」「あなたのことを思っていますよ」と言ってくれる人たち、人の真の姿を知るのは、人生の最も大変な時である。”(色彩の知恵)
キャサリン・オサリヴァン IJS
クーリー
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一考察 (2017年3月)
風-神の息
“風にゆだねた一枚の羽は、空中高く舞い上がり、いとも軽やかに飛ぶように、わずかな抵抗すら見せることなく、動かされるままになっている。”(ニコラ・バレ:霊の賛歌)
最近、田舎道を歩いていた時のことです。さわやかな風が吹いて、枯葉を巻き上げていきました。枯葉はカサカサと音を立て、四方八方に飛んで行きました。その様子を見ていた私の思いが風そのものに向けられました。何の分け隔てもなく、触れたものすべてを変容させる風の自由さ、力、自然さに感嘆せずにはいられませんでした。辺りを見ますと、田園のそこかしこに見える風の現象に気づきました。煙突から渦を巻きながら立ち上る煙、小刻みに揺れている藪、枝は波打つように大きく揺れています。何の香りもなく、さえない雑草たちはしかし誇り高く頭を高く上げています。電線はひゅうひゅうとうなり、鳥の羽はひらひらと翻り、流れる雲は霧を散らしていました。私は岩の上に腰掛け、この力強い風に捉えられるままに任せていました。想像力が働く兆しと心の中にある憧れを感じていました。そして、心の扉をトントンと叩いて、今は亡き愛する人たちが生きていたということと思い出に分け入り、彼らが言いたかったことに‘耳を傾けること’が出来ました。それは私を内的に奮い立たせてくれる経験でした。土くれが押し流されて行くのを見た時、私は、神が土の塵に‘いのちの息’を吹き入れ、宇宙を神の力、いのちの躍動で充満させた創造の瞬間を改めて思い起こしました。そして、聖霊(ヘブライ語で‘ルアッハ’)について考えました。霊は乾いた骨(エゼキエル37章)にいのちを吹き入れ、神はどのようなところにもおられることを教えてくれます。争いや著しい苦しみのあるところに変化をもたらそうと努力している革新的な人たちがいることを考えると、希望が湧いてきます。
そして、もし生きる上で、変化と新しい方向性を望むなら、‘思いのままに吹く’(ヨハネ3:8)聖霊の特徴の通り、聖霊は私の足かせをはずし、私がただ傍観者として見ているのでなく、実際に踊りの輪に加わることが出来るよう助けてくれるにちがいないと、以前にも増して強くそのことに気づかされたのでした。そこに座りつつ、私はかすかに囁きかける直感的な真理を捉え、共同体の中でもはや意味をなさなくなった取り組み方、近づき方を吐き出し、代わりに清新な霊を呼吸しようと思いました。“愛、平和、喜び……(ガラテア6:22-23)は聖霊の賜です。霊は境界線を楽々と越えて行きます。聖霊の働くところには‘排除’はどこにもありません。私たちが年老いたとしても、時間はまだあります。帆を揚げ、聖霊の風を捉えましょう。聖霊は変化を必要としている現代世界の中で、私たちが触媒として働くのを助けてくれることでしょう。‘風の中に、私たちは偉大な霊の声を聴きます。霊の息は全世界にいのちを与えてくれます。どうぞ、私たちの声を聴いてください! 私たちは小さく、弱いものです。私たちにはあなたの力と叡知が必要なのです。’(アメリカ先住民の祈り)
キャサリン・オサリヴァン IJS
クーリー
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一考察 (2017年4月)
復活物語
だいぶ前のことですが、私はある黙想会に参加しました。その時の指導者が私たちに言いました。「復活物語の一場面に自分をおいて、その場面に語らせてみてください」と。私は、女たちが「誰が墓の入り口からあの意思を転がしてくれるでしょうか」(マルコ16:1-8)と心配している場面にこころ引かれました。私は、私自身が石になり、その石(私)が生まれ育った土地から荒々しく取り除かれる場面を祈りの中で見ました。その時、それに抗う感情が心の中に沸いてきました。その感情は、置かれている状況を私が受け入れる助けとなった洞察に気づくまで続きました。要するに、私は自分自身の中におられるキリストに出会っていたのでした。そして、自分の周りで起きていることを、自分がいる場から見ることが出来たのでした。兵士がイエスとイエスに従う人たちをからかい、皮肉なことばを浴びせるのを聞くのは簡単なことではありませんでした。痛みを伴う空虚感に耐えられないと感じ始めた時、それは夜明け頃でしたが、数人の女性たちがイエスを埋葬するための最後の儀式を行うため墓に近づいてくるのを見ました。私は、彼女たちが無力感、絶望、恐れ、不安をかかえながらも尚、奉仕の使命を続けるその高貴な心に感動しました。彼女たちはどうしたら墓の中に入れるかと心配し、取り乱していましたが、‘もう一度見てみると’驚いたことに、石である私は脇に転がされていました。彼女たちは空の墓を見て、息をのみました。そして、若者が「あの方はあなた方より先にガリラヤへ行かれる…。十字架につけられたイエス、亡くなった方を墓の中の捜すことはよしなさい。」と彼女たちに話しかけるのを聞きました。この瞬間から、生きることは彼女たちにとって、もはや前とは全く違うものとなったのでした。
そして、当惑しながらも大喜びに喜びつつ、このことを告げるため、彼女たちは弟子たちのもとに走って戻りました。私たちは日々、メディアによる情報攻めに晒され、恐れから物事を見、考え、生きるようになっています。そのため、私たちは往々にして復活よりも空の墓に重きをおいて見るようになっていると思います。しかし、「あの方はあなた方より先にガリラヤへ行かれる…。」という聖書のことばは今日にいたるまで響いているのです。‘共同体、病院、教会の中、私たちがいるところならどこででも‘あのお方’に出会うことが出来ます。そしてまた、生まれ育った土地から強制的に根こそぎ引き抜かれた人々、力で非人間的な立場に追いやられている弱者の集団の中で、‘あのお方’に出会うのです。たとえどのように歪んでいたとしても、祈りと再出発によって、一人ひとりの歩みは修復可能であると信じるなら、私たちは‘あのお方’に出会うことでしょう。これこそが復活のメッセージです。人間のごく普通の状況の中に主を見つけなさいとの呼びかけ、新たな見方で見てごらんなさいとの招き、希望のメッセージなのです。
“終焉を考えている世界、
絶えず諦めているように見える世界に
私たちは住んでいるけれど、
終局を承認しようとしない何かが主張している
私たちは常に出発点・始まりにいるのだと。”
(ブレンダン・ケネリー)
キャサリン・オサリヴァン IJS
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